『唯我独尊』 ~京都ファイアーバーズ・山上直輝投手 vol.1

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京都ファイアーバーズ・山上直輝投手

1983年7月29日生まれ(26歳) 178cm 75kg 左投げ左打ち

京都府舞鶴市出身 高岡第一高―高岡法科大―富山ベースボールクラブ


 第72回センバツで甲子園に初出場する。同学年に2001年ドラフトで8巡目指名された高橋聡文(中日)投手がいる。(ちなみに第72回センバツでは京都勢は鳥羽高がベスト4へ進出。東海大相模高が優勝、智弁和歌山高が準優勝だった。)


―まず、チームに入団した経緯をお聞かせください。

チームは今4年目なんですが、3年前の秋にトライアウトを受けました。峰山で行われて、榊原さん(前監督)にその日のうちに合格を伝えられました。3人の応募の中で3人が合格しましたけど(笑)。


―どんなテストだったのですか?

ブルペンでピッチングをしただけなのですが、竹内さん(現監督)に「たぶん、合格ですよ。1球だけすごいスライダーがありました」と言われました。


―竹内さんは今は監督ですね。同い年なんですね?どうですか?

むしろやりやすいです。でも、野球の時は敬語で話します。それ以外は友達として接していて、たまに飲みに行ったりもします。


―竹内監督は近江高の出身で先発投手として活躍されました。甲子園では準優勝。それで西武ライオンズに入団されました。

もちろん、知っています。甲子園のときはテレビで観ていました。(ピッチャーの)3人はすごいなあ、と。特に左の島脇投手の印象が強いです。


―元プロ野球選手の竹内監督から学ぶことは多いですよね。

そうですね。今までは野球を深く知らなかったと。ただやっていただけで、良かった、悪かっただけしか思えなかったですね。ファイアーバーズに来て、より野球は深いし、面白いと知りました。そういう面で監督に感謝しています。野球に関しては聞く一方で、次につながるアドバイスをもらっているので、日々成長している気がします。チームメイトにも考え方とか色々聞けて良かったです。


―野球を始められたきっかけは?

友達に誘われてスポーツ少年団に入りました。少年野球ではエースでした。


―中学時代は、福知山成美の長岡投手と同じボーイズの舞鶴ベースボールクラブのご出身ですね。

それが長岡君のことは全然覚えてないんですよ。練習に顔を出してピッチャーも何人か見たはずなのに(苦笑)。先輩では阪神の杉山投手もそうです。僕とは入れ替わりでした。そのときは投手ではなかったそうです。ボーイズは市内では舞鶴ベースボールクラブだけしかないです。中学のクラブは陸上部でした。駅伝のときだけの活動でしたが。(笑)


―舞鶴ベースボールクラブでの実績などについて教えてください。また京都のボーイズではどこが強かったですか?

特にこれといってないですね。そう言えば、1つ上の内海さん(敦賀気比高―東京ガス―巨人)や同い年の今江(PL学園高―ロッテ)のいた京都田辺と府大会決勝で対戦したことがあります。負けましたけど、守備固めでファーストを守ったのは覚えています。当時の京都田辺は別格でした。


―エースだったのですか?

エースは萩野(若狭高―富山大―福井ミリオンドリームス)で、次が高橋(高岡第一高―中日)で僕は3番手でした。左が3人でした(笑)。一つ下では横山(福知山成美―近鉄―オリックス)がキャッチャーをやってました。横山はよく打つし体もでかくて、肩も強くて、3年生の中に溶け込んでいました。


―ずっとピッチャーというわけでもないのですか?

小中はファーストや外野もやっていましたが、主に控えの投手でしたね。中学の時でもまだ小さかったです。


―高校は富山県の高岡第一高に入学されます。2年時に第72回(2000年)センバツ大会に初出場されてますね。チームの成績はどうでしたか?

1年夏は県大会で準優勝でした。1年秋は北信越大会まで勝ち進んで、準決勝で金子(トヨタ自動車―オリックス)のいた長野商に1-2のサヨナラで負けました。高岡商が同じくベスト4で、3位決定戦に勝ちました。でも、北信越のセンバツの枠は2校でした。結果として北信越大会で優勝し、明治神宮大会で準優勝した敦賀気比と長野商が選ばれました。でも、…それが3月になってから敦賀気比に不祥事があって…、補欠校に選ばれていたおかげで繰り上げでセンバツに出場することになったのです。


―ええっ?そうだったんですか?…で、調べたのですが、甲子園では…投げなかったのですよね。

はい、投げていません。ベンチにも入ってなくて、バックネットのところでボールボーイをやりました。初戦で国士舘に0-2で負けました。2時間くらいで終わりました。1つ上の島崎さんが完投したのですが、1回戦負けです。国士舘の先発はカープの小島(国士舘高-国士舘大-広島)さんでした。3安打で完封されました。


―投手としてはどうでしたか?1年から教えてください。

1年の秋の予選でベンチに入りました。が、それ以降はひじが痛くて投げられませんでした。2年の秋に左ひじを手術しました。最後の夏はベンチにも入っていません。


―中日ドラゴンズで活躍中の同僚、高橋投手のことをお聞かせください。

高橋は中学の時ひじを痛めていたので、高校へ入学する時は野手としてでした。バッティングもよかったですから。ピッチャーに戻ったのは2年の春で、いいのは中学の時から知っていたのでヤバイと思いました。野手で行くというから安心していたのに(笑)。高岡第一に高橋と一緒に行ってどうかとは思いましたが、振り返ってみてもやはりそれでも行ったと思うし、一緒に野球ができて良かったです。


―センバツではボールボーイをしたのですか?

本当はスタンドで応援したかったのですが、じゃんけんで負けました(笑)。春なので寒くてジャージを一枚上に着て。バックネットからマウンドに行ってロジンバックを置いて帰ってきたり…。そのときマウンドから甲子園の風景を見て感動しましたね。


―土は持って帰りましたか?

甲子園練習の時、持って帰りました。当時はひじ痛でキャッチボールもできない状態で、もう来られないかもしれないと。


―同僚の高橋投手のことをもう少し聞きます。

センバツ後の2年の春にエースの島崎さん一人だけの状況になって、高橋はピッチャーを再開しました。左で140キロの速球と大きなカーブを武器に三振を取るタイプでした。3年夏の1回戦ではノーシードでしたが、優勝候補の富山商と対戦しましたが、3-0で完封しました。確かスカウトも来ていたと思います。でも、僕はプロに行けるレベルとは思ってなかったですね。近すぎてわからなかったかもしれない。大事な時にケガをして、本当は長いイニングを投げられない状態でもありました。県大会決勝では、下級生が先発して、大事なところで高橋が登板しましたが、滑川に負けました。その滑川も甲子園では1回戦で金沢に負けました。


―その3年夏の甲子園で日大三が優勝して、竹内監督がいた近江が準優勝したということですね。

そうですね。近江で投げていた竹内監督とこうやって一緒のチームでやることになるなんて不思議な感じがします。



―ところで、高橋投手は打者としてはどうだったのですか?

センバツでは確か3打数ノーヒットだったと思います。でも、バッターでプロに行くのかなあと思っていました。3年の夏前にスカウトが観に来ていて、ケガでピッチングが見てもらえないので、監督が試合に代打で出したことがあります。そのとき初球をライトにホームランを打ってしまいました。打者でもいけると思っていました。


―プロの1軍のマウンドで投げている姿を観た感想を教えてください。

テレビで観てたら、球速が150キロ近くになり、10キロもアップしていました。「そんなに速かったっけ?」と思いました(笑)。



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