京都アマチュア野球だより

試合結果、選手成績などを写真付きで紹介しています (SINCE 7.06) 著:若林千尋

2009年11月

『唯我独尊』~佛教大・大野雄大投手 vol.1

『唯我独尊』~佛教大・大野雄大投手 vol.1

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佛教大・大野雄大投手(3年) 1988年(昭和63年)9月26日京都市生まれ

左投げ左打ち 182cm73kg

背筋力200キロ 握力左右60キロ 遠投115メートル 50メートル 6秒2

 小学5年から修道スポーツ少年団で野球を始める。藤森中では3年夏に京都市大会で優勝。京都外大西高では2年夏の甲子園で準優勝(登板なし)を経験する。3年春の選抜大会では、先発としてマウンドに上がった。佛教大入学後、春季リーグ開幕試合にリリーフとして登板。3年からエースに。リーグMVP2回(最優秀投手1回・ベストナイン2回)。11月初めに行われた関西地区大学野球選手権大会で優勝し、MVPを獲得する活躍を見せた。明日14日開幕の明治神宮大会に出場。来秋のドラフト候補の一人として注目を浴びている。


※インタビューは8月下旬に行いました。



―インタビュー、よろしくお願いします。いきなりですが、高校時代を観戦していてバッティングもいいと思っていたのですが、京滋大学野球リーグはDH制で打席に立つことがありませんね。

こちらこそ、よろしくお願いします。バッティングは好きです。秋の関西選手権に出場すれば打席に立つことになりますので楽しみにしています。


―背番号が19番ですね。思い入れとかありますか?

特にはありません。入部当初は13番で、2年春にこの番号が空きましたので(投手として)ええ番号やなあと思ってもらいました。


―小学生のときからピッチャーだったのですか?

学童野球チームの中では既に投手は決まっていましたし、左利きということでライトかファーストを守っていました。冬の寒い練習の時に、ドッチボールをすることがあって、投げる球が速いということから監督に投手の指名をされました。けれど、思い通りにストライクが入らなくて四球ばかりでした。少年野球の監督は熱血漢タイプで、「思いっきり(力いっぱい)投げろ!」とよくベンチからマウンドまで声が飛んで来ました。「腕を振れ!」ということだったんですけど、どうもノーコンから脱出できませんでした。監督は、すごく恐い存在でしたけど、野球を基本から教えてくれました。それまでのどの遊びよりも楽しくて、のめり込むほど野球を好きにさせてくれた人でもあります。


―今は四球で自滅するようには見えませんね。

ストライクが入るようになり始めたのは、中学2年で自主トレをするようになってからです。毎晩、野球部の仲間3人で、素振りやランニングをしていました。始めは遊びの感覚でやっていたと思いますが、たまたま同じように自主練で走っている先輩の姿を数回見かけるようになり、自然と取り組む気持ちも変わって行きました。一緒に自主トレが出来る仲間がいたこと、真剣に取り組む先輩がいてくれたことで自分も成長出来たと思います。


―中学では府大会で優勝されてますね。

中2の夏は京都市大会、京都府大会も共に優勝でした。メンバーに入っていましたが登板はなかったです。中3の夏はエースで市大会に優勝しました。準優勝チームの西賀茂中と一緒に府大会に進みましたが、藤森中は1回戦で峰山中に負け、西賀茂中は優勝しました。西賀茂中のエースは後に西高でチームメイトとなる林一茂(大阪ゴールドビリケーンズ)です。


―藤森中は今でも強いですね。関西学院大の萩原選手(1年、大阪桐蔭高)ともプレーしたことがあるのですか?

この夏も市大会でベスト4だったそうです。当時の監督は、今でもまだ指導されています。体育の先生で元々は水泳の指導をされていましたが、野球の知識は豊富でした。萩原君は小中共に同じ学校でしたが、一緒にやったことはないです。彼は硬式のチームだったと思います。


―中学のとき憧れていた投手はいますか?

平安の服部さんです。中3のときダルビッシュとの対戦を観て憧れました。その後、たまたま河原町で見かけたことがあって、「有名人!」と思うせいかオーラを感じました。


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―中学で実績を残して、高校は京都外大西に入学されましたね。

公立で実力のある「鳥羽高に行きたい」と顧問の先生に志願してセレを受けました。それと外大西の三原監督が中3の春ぐらいから僕を観ていてくれたそうで、推薦の話をいただきました。でも、当時は高校野球のことを何も知らず、正直、“京都外大西”と言われても自分の中では、ピンときませんでした。顧問の安江先生から三原監督の今までの実績や功績を聞き「すごい人やから」と勧めて下さり、お世話になることにしました。一緒の西高へ行くことになった同級生の吉田は、一年の秋からレギュラーで3番を打って活躍していました。3年では4番で主将でした。


―軟式から硬式へ。今まで故障したことはないのですか?

中3の夏は連投が続き、引退した頃に肘を痛めました。それでも手術する必要もなくて引退から高校入学までのオフ期間で自然治癒しました。軟式から硬式になっても僕の場合は特に問題はありませんでした。引退してから硬式球を投げて徐々に慣らしたことが良かったのかもしれません。


―京都外大西は毎年投手陣がすごいという印象です。練習では相当投げるのですか?

高校では毎日ピッチングで100球から150球は投げていました。登板する試合3日前だと100球、2日前だと50球、前日は30球前後くらい投げます。投手は1学年10人弱でした。


―試合で投げ始めたのは?硬式出身者との違いを感じましたか?

1年秋の練習試合からです。硬式出身で同学年は北岡(立命大)や平林(同志社大)、中川(関大)が南山城ドラゴンズで、最初からうまいと感じました。他にもセンスのある選手が多かったけど、あんまり気にしてなかったです。


―軟式出身は?

主力では西賀茂中出身の林(大阪ゴールドビリケーンズ)や主将だった西田ですね。藤森中は4つの小学校から生徒が集まるマンモス中学校だったので、グラウンドも広く、顧問の先生が監督以外にも5人もいて指導も充分に受けられましたし、前にも触れた通り、先輩や仲間にも恵まれ練習する環境が整っていて、総合的にとても良かったと思います。


―藤森中は強いですが、実力者がいたのですか?

特に飛び抜けた実力者はいませんでしたが、チーム力はあったと思います。中学での一番の思い出として残っているのは、3年の夏の初戦の試合。その試合は(ピッチングが)大荒れで大量失点し、最終回を迎えたところで、1-7と大差で負けていました。先攻で2死になった時、「あと1死...これで中学野球は引退か」と頭をよぎりました。でも、そこからバッターがねばり8点取って逆転したんです。逆転した裏に1点返されましたけれど、逃げ切って奇跡的(神がかり的)に勝つことが出来ました。その後もチーム力でトーナメント戦を勝ち進み、初戦敗退しかけたチームが優勝まで出来たことは今でも心に残る凄い夏の思い出です。ちなみに初戦の高野中には、西山(京都成章―立命大)や、ベンチには1つ下の西村(京都外大西―同志社大)がいました。


つづくvol.2へ

『唯我独尊』~佛教大・大野雄大投手 vol.2

『唯我独尊』~佛教大・大野雄大投手 vol.2

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―それで、話は戻って高校時代に。いよいよ投げるようになりましたね。背番号17番でした。

公式戦は、高校2年の春が初登板でした。夏は2回戦の園部戦、4回戦の日吉ヶ丘戦に先発しました。


―その夏の決勝で乙訓に勝って京都大会を制し、全国大会では駒大苫小牧に負けましたが準優勝しました。同学年の北岡、後輩の本田(明石レッドソルジャーズ)両投手の活躍の中、甲子園では登板がありませんでした。

全国大会で登板させる信頼感を持てていなかったと思います。三原先生は実力のある選手をどんどん使っていきますから。


―同じ2年の坂本投手は甲子園で先発しました。北岡君、本田君は甲子園のスターに。

甲子園で自分も「投げたい」という思いはもちろんありました。1つ下の本田が注目されて「うらやましいなあ」とも思いましたが、自分の実力がないのだから「仕方ない」と自分の中で考えていました。けれど、「秋はやってやろう」と、その甲子園のベンチで心に誓っていました。


―秋に三原監督が勇退し上羽監督に代わります。そして、甲子園での疲れの残る北岡君、本田君に代わり京都大会ではもはやエース級の活躍でした。

秋の大会では、投げていく過程で自信を積むことが出来ました。投げないと自信がつかないのだと気付きました。結果も自然と残るようになっていました。


―決勝の平安戦では先発しました。まだ失点のないところで降板しましたが、北岡君、本田君が打たれてしまいました。二人を出せという球場のムードもありました。準優勝でした。

継投があの頃の西高の通常策になっていましたし、二人の実力は認めるところで、その二人が打たれるのは仕方がないことです。


―そして、近畿大会に進出しましたが、全く登板がありませんでしたね。

投げられなかったことが印象として残っています。投げたかったし、使ってほしいとは思いました。特に智弁和歌山戦には。


―智弁和歌山には負けましたが、近畿大会でベスト4に残りセンバツ出場が決まります。それでセンバツの1回戦、東海大相模戦で先発します。

やっと重要な試合で投げられる「よし!」と思いましたが、すごく緊張もしました。負けたら、打たれたらって・・・嬉しいのが半分、不安と緊張が半分でした。


―先発したのでもっと投げると思っていましたが、それが東海大相模戦でも早い段階で降板することになりました。

それは監督の采配(策)なので仕方ない部分です。確かにもっと投げたかったけれど、続投して打たれたかもしれなかったですから。ただ、僕を応援してくれる多くの人から「代わるのが早かったんじゃない?」と言ってもらいましたので自信に繋がりました。


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―3年春の大会です。準決勝の京都成章戦に敗れ、3位決定戦の立命館戦に先発し、15奪三振でした。その後、京都選抜チームの背番号1に選ばれ、米国チームと対戦します。

春の京都大会では北岡に負けないくらいのピッチングができました。それまで、西高では「エースは北岡」という雰囲気があり(事実、北岡には勝てない部分があり)エースにはなれませんでしたが、日米親善大会の京都選抜チームでは1番をもらうことが出来て嬉しかったです。1番、一度は付けてみたかったから。


―夏の大会では背番号10でしたね。リリーフした準々決勝の京都すばる戦のピッチングは素晴らしかったです。

エースは北岡ですので、1番はあきらめていました。準々決勝までに1度先発して、京都すばる戦はリリーフで登板しましたが、試合展開で登板することになっただけで、トーナメント表から「平安戦いくぞ」と言われていました。でも、平安は4回戦で成美に負けて、それで準決勝の成美戦に先発しました。


―すばる戦で何かを乗り越えた、一皮向けた印象があります。社会人の東宇治クラブの選手の中に、そのときのすばるのメンバーに入っていた選手がいて、当時のボールの印象について最近聞いてみましたが、「すごかった」と言っていました。

それは自分ではわかりませんが、とにかく勝ちたい、準々決勝の、「このままでは終われん」という意識でした。


―最後センター前の当たりを弾いてなかったら…。

グラブに当たって幸いショートゴロになりました。当たっていなかったら同点でしたね。

―その試合では、序盤にリードを許しましたが、終盤に同じ中学の吉田君が逆転の走者一掃を打ちましたね。

あの場面で吉田に回ってきたのは何かあると感じました。2人に推薦が来て、同じ高校でプレーできたので。中学の時は二人だけで遊ぶということはなかったけど、野球部の仲間の中にはいつも一緒にいましたから。


―そして、準決勝の成美戦に先発。決勝の3ランホームランを打たれてしまいました。

あれは、ウエストボールがど真ん中にいってしまいました。西高のピッチングコーチとしては真鍋さん(部長)に見てもらっていました。でも、試合後、あの3ランのことを言われると思っていたら、打たれる前の過程のことを言われました。


―詳しく教えてください。

3ランを打たれるその前にセンター前ヒットがあったのですが、あの回は、1人目が四球で、2人目が2ストライクと追い込んでいるのに、けん制球を多投していたんです。それで真鍋さんに「けん制いらんやろ」と。それがバッターに余裕を与えて、2人目にセンター前に運ばれた。だから、そのセンター前ヒットのことを言われました。そして、次打者カウント1-0からあのコースにいってしまいホームランを打たれました。野球はそういうことがつながってると思いました。


―結果、成美に2-4で敗れました。3連覇がなくなり、今まで一緒にやってきた北岡君や本田君に対してはどういう気持ちでしたか?失礼なことを聞いてすみません。

北岡や本田には悪いという気持ちはなかったです。最後の夏は「自分が甲子園に連れて行く!」と思っていました。けれど、準決勝で負けて、すごく悔しかったです。でも最後は、チームのみんなと笑い合えたし、やりきった感がありました。それに、これからは毎日クラブないし自由が待っているって、ね。でもね、最近思うんですが、高校球児は甲子園へは行ったほうがいいと。


つづくvol.3へ

『唯我独尊』~佛教大・大野雄大投手 vol.3

『唯我独尊』~佛教大・大野雄大投手 vol.3

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―それは、なぜですか?北岡君や本田君はモテモテになったとか?(笑)

人生が変わります。なんやかんや言っても、球児はみんなあれを目指してやっているし、出場すれば、同じ野球人に認めてもらえるということです。大学でも野球を続けていてそれを肌で感じることが多くなりました。北岡や本田が(写真撮られたりして)モテるのは、それは仕方ないです(笑)。


―失礼しました(笑)。外大西は昨年も今年の夏も成美戦で痛いところでホームランが出ましたね。

僕も観に行っていたのですが、試合終了後、挨拶に行ったら上羽監督に「お前からホームランを打たれて負けている」と言われました(笑)。


―それにしても、外大西の投手陣は素晴らしいですね。いっぱい取ってくるとか言われたりしているようですが、どうですか?育つ秘訣とかありますか?

他のチームと比べても、西高は京都人と枚方ぐらいまでの範囲で特別に地方から集めているということはないです。投手陣は自前で鍛えさせられます。


―西高といえば、打撃力というよりも守備や機動力ですね。

主に守備力のチームという点で投手がしっかりしてくるのかもしれません。


―やっと大学の話です。ここまで長くてすみません(苦笑)。佛大に入ったきっかけは何ですか?

特にどこの大学に行きたいという強い希望はなかったのですが、関西六大学リーグ連盟所属ということと、学舎が家の目の前で通学が楽ということで龍谷大学がいいかなぁと考えていたことがあります。上羽監督や真鍋部長からは佛教大学を強く勧められました。


―社会人は考えませんでしたか?

「社会人になって通用すると思えない」と言われて。「選手を大事に使ってくれるのは佛大」とも言われました。


―佛大に入った当時はどうでしたか?

1年春からベンチ入りさせてもらいました。当時は藤原監督でしたが、上羽監督や真鍋部長がなぜ佛大を勧めてくれたのか理由がわかりました。大事にされました。1年の春の開幕試合、最終イニングだけですが登板させてもらいました。入学してすぐの開幕試合から登板させてもらえることは大変珍しいと思いますので。練習量は高校の方が多かったです。大学は自主練習が多く、人数も減りました。


―高卒でプロ入りする話もあったのですか?

「あっても『本人のために大学に行かせる』という返事をしていた」と言われます。当時は3球団が夏の前に練習場まで観に来てくれました。実は今日もスカウトの一人が来ていました。その人は3年春の3位決定戦(立命館戦)での15奪三振を観てくれたそうです。本当は平安と京都成章の決勝がお目当てだったそうですが。


―大野投手と言えば、その独特のピッチングフォームですね。観ていて故障しないかなとか直さないのかなとか思ったりします。

今までにも元ピッチャーの人に指導を受けてきたけれど、自分の投げたいフォームで投げています。「そんなフォームでよく投げられるなあ」と言われたりしますが、故障せずに来られたのは幸いです。


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―大変失礼な質問ですが、今甲子園で活躍中の花巻東の菊池君とか観ていてどうですか?

すごいピッチャーだと思います。プロに行くために何をしないとあかんのか知っていると思います。


―今年の高校球児は140キロ後半とか普通に投げますね。

本当ですね。びっくりします。僕よりも天性がある選手に対しては、それはそれで一つの個性と捉え、あえて「追い越さなければ」とは思わないですね。でも、同い年で騒がれているハンカチ王子の斎藤君は、僕は抜けるし抜きたいと思っています。


―他にできれば同い年で、意識している有名な選手か左ピッチャーはいますか?

目標としていて対戦したいのは東洋大の乾投手ですね。今回日本代表にも選ばれていますが、勝ちたいです。佛大の1つ上の先輩が兵庫県出身で、乾投手とは中学で同じボーイズに所属していたらしく、「お前も変わらんから自信持て」と言ってくれました。向こうは東都のベストナイン(08年春、最優秀投手&ベストナイン)ですけど(笑)。ストレートのMAXでは1キロ勝っています。


―今日に備えて、全日本大学野球選手権の中京大戦のビデオを昨日観てきました。見事な5安打完封でしたが、けん制球が少ないのと、2ナッシングから勝負に行き過ぎるかなと思いました。

さっきも言ったように成美戦のあの頃からけん制はあまりしなくなりました。2ナッシングからは年々勝負にいけるようになりました。確かにマニュアルでは2-0からは1球外すのですが、リーグ戦ではどんどん攻めていこうと思っています。


―今のストレートのMAXは147キロですか?どうやって速くなりましたか?

高校時代はMAX140キロだったので今は7キロアップしました。高校時代の体重が66キロで今は7キロアップしたから、そのせいもあるかと思います。不思議と比例しています。


―何かこだわりとか験担ぎとかありますか?

ええと……試合の朝にシャワーを浴びることが習慣になっています。それと…試合の朝にコーヒーゼリーを食べることですね。それは高校2年の秋からです。


―それは、……もしかして冷蔵庫にストックしてあるのですか?

いいえ、その日の朝にコンビニに買いに行きます。メーカーも決まっているんですが、たまにないコンビニがあるんですよ。そのときは不安になります。そういうときは他のデザートにします(笑)。


―お時間取らせてしまってどうもありがとうございました。そう言えば、5リーグオールスターの時に言っていた収得したばかりのフォークはあれから投げましたか?

フォークは温存です。東洋大の乾投手もまっすぐとスライダーだけしか投げないらしいのです。本当はチェンジアップがあるそうなんですが。先輩から「大学生ぐらいはそれで抑えろ」と言われていました。それで、自分もまっすぐとスライダーだけで中京大打線を抑えられたことは自信になりました。今は片思いですが、ライバル(目標)を持つことは励みになります。僕もライバル視してもらえるように頑張ります。今日はありがとうございました。今後とも応援よろしくお願いいたします。


おわり



※『唯我独尊』とは、「自分一人が特別にすぐれているとうぬぼれること。ひとりよがり」という意味ではなく、「この世の一人ひとりが主人公。」といった意味で捉えています。

※あれから3か月。大野投手のストレートのMAXは151キロをマーク。その上、今季与えた四球はたったの2つとコントロールも安定し、成長を遂げています。明日14日開幕の明治神宮大会での活躍が期待されます。佛教大は初戦で創価大と九州産業大の勝者と大会3日目に対戦します。




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(参考HP)

佛教大学硬式野球部硬式HP

日本学生野球協会:明治神宮大会
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