『唯我独尊』 ~京都ファイアーバーズ・山上直輝投手 vol.2
―それではお話を聞いた限りでは、高校時代は公式戦では投げていないということですか?
ほとんど投げていませんね。…もしかしたら1イニングぐらい投げたかもしれません。
―ひじがずっと痛かった?
1年秋にひじが痛くなってきて…、県内の病院で痛み止めの注射を打ってもらってやっとできるかどうかでした。でも、安静にしていれば直ると思っていました。結局、痛くて、病院の先生には「この状態では投手をあきらめろ、野球をあきらめろ」と言われました。どこの先生にも「せめてピッチャーはやめた方がいい」と言われましたね。
―それで、手術をしたのが2年の秋だったんですか?
はい。それまでにスポーツ系の病院を4ヶ所くらい回ってたのですが、どこも「手術しても痛みが変わらないかもしれない、直るかわからない」と言われました。それで中学の時に高橋が見てもらっていた大阪のスポーツ・ドクターのところに行きました。それまでにも探していたのですが見つからず、「いいよ」と言ってくれたので行きました。そしたら、「手術しよう。治らんと思ったら手術せえへんから。スケジュールはいつが空いてるの?」と聞かれました。そして、2ヶ月間も入院してリハビリしました。ちょうど富山国体の行われた時期ですね。日本新薬やNTT西日本、近大、近鉄の選手も入院してました。とにかく、ひじが痛くてもいつかは治ると思ってましたし、それで野球をやめたいと思ったことは一度もなかったですね。でも、ケガをしている期間が長く、僕の高校野球は、高校1年の夏までに終わったというのが実感です。
―手術してから復帰したのですよね?ひじの調子は?
ベンチに入れるように頑張りましたが、練習試合では投げたら打たれました。3年の春季大会後、メンバーに入り遠征で福井高校に行ったときに、舞鶴のボーイズチームで同級生だった4番にセンターに弾丸ライナーでホームランを打たれてしまいまして、それ以来試合に出られなくなったように思いますね(苦笑)。それでも監督には「(ひじは)痛くありません」と言ってました。甲子園に出たかったので。
―聞いていいのかどうか…、ひじは具体的にどういう症状だったのですか?
レントゲン写真を見たら、親指の爪ぐらいの大きさの骨が外に出ていました。MRI検査では靭帯から出血していて、後ろにいた先生が2、3人寄って来て、また離れて小さい会議が開かれました(苦笑)。関節ねずみと靭帯や神経の損傷の3つという感じでしょうか。今でもピンで固定していますし、靭帯がゆるいのをつり橋みたいに締めています。今でも痛くないわけではないですが、これくらいならみんなやっていると思うレベルです。痛いけど全力で投げられた時は本当に嬉しかったです。投げている時は痛くても、日常生活に支障はないですね。手術後は薬も飲んでいなかったし、今はもう「完治した」と言っていいと思います。
―ありがとうございました。大変参考になります。しつこいですが…手術に抵抗はなかったですか?
はい。でも、高校の監督は手術を勧めなかったですね。勧めることができなかったようです。昔社会人野球の三菱自動車川崎で指導されていたのですが、選手が手術して復活できなかったことがあったそうです。でも、僕はそのとき手術したら投げられるようになるとずっと思ってました。今では手術してよかったと本当に思います。
―今はもうその病院には行ってないのですか?
高校の時は頻繁に大阪まで行ってました。でも、高校から大学2年までに3ヶ月に1回、半年に1回、1年に1回と段々減っていきました。それ以降は1回も行ってないですね。
―大学は、高岡第一高系列の高岡法科大に入学されます。
監督に「セレクションを受けたりして他のところに行っても、試合に出てエースとして投げている方がみてくれる人はみてくれるぞ」と言われました。
―大学ではどんな感じでしたか?
それが、大学の時でもそれほど納得できる結果が出ませんでした。だから社会人野球に進むのですが…。
―先発ローテーションに入ったりしなかったですか?
2年秋から投げるようになって、3年春からローテーションには入りました。でも、負けてばっかりでした。10勝もしていないけど、10敗はしたと思います。
―北陸大学野球連盟でのチーム成績は?
入学前の秋は優勝だったみたいですが、4年春の2位が最高でした。大抵は福井工業大か金沢学院大が優勝しました。福井大が2部に落ちて、1部に上がってきた金沢星稜大学が、星稜高の系列校なのですが、強くてリーグ戦が混戦になってしまいました。
―4年春の2位のときは?
その時は勝ち点制ではなくて、リーグでは10試合の内の何勝何敗で競うのですが、7勝3敗でした。その内の2敗は自分で…。打たれた試合と援護のなかった試合でしたけど、毎試合なんでこんなしょうもないピッチングしかできないんやろ?、やればできるのに、とずっと思ってました。相手チームの監督にも「未完成」と言われる始末で…。チームに迷惑をかけていたので、打たれた時は何か言われてると思ってました(苦笑)。
―投手はチームに何人くらいいたのですか?
部員が40人で10人くらいは投手でした。背番号は18番でした。
―大学時代、新聞に取り上げられたりしたことはありますか?
富山の北日本新聞に写真付きで取り上げられたことがあります。4年の春に優勝候補だった福井工大に0-2で負けたときのことです。ヒットは5安打に抑えたし、ピッチングとして悪くはなかったですが、何をしゃべったかは覚えていません。でも、監督のコメントは覚えていて、確か「打線に援護がなかった。山上はよく投げた」でしたが、自分では2失点でもそうは思わなかったです。結果的に福井工大が8勝2敗となり優勝。チームを優勝決定戦に持ち込めなかったですから。
―4年秋は?
4年の秋は試合には出ずにベンチにだけ入ってました。社会人野球のセレクションを受けたこともあったので。普通は4年は春で引退して、上に行く人は秋も各チーム1、2人くらいはベンチに残ります。
―セレクションはどこを受けたのですか?
京都のニチダイを受けましたが、結果不合格でした。確か投手では西岡君(甲賀健康医療専門学校)が受かったと後で聞きました。
―それで、就職して富山ベースボールクラブに入団されるのですね。
はい。でも、仕事が3交代制で練習に出られない日があって…。本当はずっと富山でやろうと思ってました。30歳を過ぎて体が動かなくなったら、定年まで働いて…、と思ってましたが、まさか1年でやめることになろうとは思いませんでした。
―クラブチームから会社を紹介されるのですよね?
そうです。ホームグラウンドを持っていて環境も良かったので。…でも、会社に就職してもクラブと会社は別物なので、僕に理解が足りていないところがありました。自分からもっと練習や試合に参加できるように働きかけることができませんでした。野球で会社に来ている、と言えれば、もっと練習したい、と主張すればよかったのですが、そうもいかなくて…。野球にたまに行くことになって面白くなくなっていって…、もしかしたら自分から面白くない方向にもっていったのかもしれません。会社はそのクラブの一番のスポンサーだったのですが…。
―つまり、他のみんなと同じように仕事をしていて、3交代制で練習に行けなかった。会社では練習に行くように指示がなかったり、社員の人たちにも野球のための援助、理解が浸透してなかったということですね。でも、そもそも会社員でも3交代制の勤務ではなかなか難しいですよね?
そうですね…(苦笑)。野球をやりたいから入社したのですが、仕事自体に興味があるわけではないし、「3交代でもいいですか?土日もありますよ」と言われて、それを安易に了承してしまったのが悪かったです。そこでチームに相談もしてみましたが、「そこで頑張れ!」と。
―それでは一番大事な練習ができないから大変です。ちなみにどんな仕事だったのですか?
仕事の内容はオペレーション業務で、情報処理やプログラム開発、運用、管理というような分野でした。わかりやすく言うと、銀行のATMのシステムオペレーターやデータ処理といった感じです。
―…難しそうですね?僕にはよくわかりません(苦笑)。
いい会社だったのですよ。給料もとても良かったですし、残業もありませんでした。ただ休みがバラバラで、土日が必ず休みではなかったのです。だから、野球ができなくなって、それでクラブチームにいずらくなったというか、…大学や会社、クラブチームの迷惑を考えろよと色々と言われたりもしましたけど…。チームもいい仕事場を紹介するけど…といったスタンスで…。結局そんな状況で4月から野球は二の次になったということです。やるべきことが後手後手になってしまったのもあります。
―それで残念ながら会社も辞めることになってしまうんですね?
チームを辞めるのはいいとしても、なんで会社まで辞める必要があるの?と言われましたけれども…。確かに働くという点ではいい会社でしたけど…。野球がやりたいから。それでも1年間は説得されてファイアーバーズの練習に参加しながら会社で働いていました。
―ところで、その時期にクラブ選手権に出場したのですね?西武ドームに行ったのですか?
西多摩クラブに勝って、オール足利クラブに負けたのをベンチで観ていました。そのときは足利市民球場でした。試合にも出ないで、今までで一番やる気を失くしていた頃と思いますね。試合にも出たことがありませんでした。
つづくvol.3へ
―それではお話を聞いた限りでは、高校時代は公式戦では投げていないということですか?
ほとんど投げていませんね。…もしかしたら1イニングぐらい投げたかもしれません。
―ひじがずっと痛かった?
1年秋にひじが痛くなってきて…、県内の病院で痛み止めの注射を打ってもらってやっとできるかどうかでした。でも、安静にしていれば直ると思っていました。結局、痛くて、病院の先生には「この状態では投手をあきらめろ、野球をあきらめろ」と言われました。どこの先生にも「せめてピッチャーはやめた方がいい」と言われましたね。
―それで、手術をしたのが2年の秋だったんですか?
はい。それまでにスポーツ系の病院を4ヶ所くらい回ってたのですが、どこも「手術しても痛みが変わらないかもしれない、直るかわからない」と言われました。それで中学の時に高橋が見てもらっていた大阪のスポーツ・ドクターのところに行きました。それまでにも探していたのですが見つからず、「いいよ」と言ってくれたので行きました。そしたら、「手術しよう。治らんと思ったら手術せえへんから。スケジュールはいつが空いてるの?」と聞かれました。そして、2ヶ月間も入院してリハビリしました。ちょうど富山国体の行われた時期ですね。日本新薬やNTT西日本、近大、近鉄の選手も入院してました。とにかく、ひじが痛くてもいつかは治ると思ってましたし、それで野球をやめたいと思ったことは一度もなかったですね。でも、ケガをしている期間が長く、僕の高校野球は、高校1年の夏までに終わったというのが実感です。
―手術してから復帰したのですよね?ひじの調子は?
ベンチに入れるように頑張りましたが、練習試合では投げたら打たれました。3年の春季大会後、メンバーに入り遠征で福井高校に行ったときに、舞鶴のボーイズチームで同級生だった4番にセンターに弾丸ライナーでホームランを打たれてしまいまして、それ以来試合に出られなくなったように思いますね(苦笑)。それでも監督には「(ひじは)痛くありません」と言ってました。甲子園に出たかったので。
―聞いていいのかどうか…、ひじは具体的にどういう症状だったのですか?
レントゲン写真を見たら、親指の爪ぐらいの大きさの骨が外に出ていました。MRI検査では靭帯から出血していて、後ろにいた先生が2、3人寄って来て、また離れて小さい会議が開かれました(苦笑)。関節ねずみと靭帯や神経の損傷の3つという感じでしょうか。今でもピンで固定していますし、靭帯がゆるいのをつり橋みたいに締めています。今でも痛くないわけではないですが、これくらいならみんなやっていると思うレベルです。痛いけど全力で投げられた時は本当に嬉しかったです。投げている時は痛くても、日常生活に支障はないですね。手術後は薬も飲んでいなかったし、今はもう「完治した」と言っていいと思います。
―ありがとうございました。大変参考になります。しつこいですが…手術に抵抗はなかったですか?
はい。でも、高校の監督は手術を勧めなかったですね。勧めることができなかったようです。昔社会人野球の三菱自動車川崎で指導されていたのですが、選手が手術して復活できなかったことがあったそうです。でも、僕はそのとき手術したら投げられるようになるとずっと思ってました。今では手術してよかったと本当に思います。
―今はもうその病院には行ってないのですか?
高校の時は頻繁に大阪まで行ってました。でも、高校から大学2年までに3ヶ月に1回、半年に1回、1年に1回と段々減っていきました。それ以降は1回も行ってないですね。
―大学は、高岡第一高系列の高岡法科大に入学されます。
監督に「セレクションを受けたりして他のところに行っても、試合に出てエースとして投げている方がみてくれる人はみてくれるぞ」と言われました。
―大学ではどんな感じでしたか?
それが、大学の時でもそれほど納得できる結果が出ませんでした。だから社会人野球に進むのですが…。
―先発ローテーションに入ったりしなかったですか?
2年秋から投げるようになって、3年春からローテーションには入りました。でも、負けてばっかりでした。10勝もしていないけど、10敗はしたと思います。
―北陸大学野球連盟でのチーム成績は?
入学前の秋は優勝だったみたいですが、4年春の2位が最高でした。大抵は福井工業大か金沢学院大が優勝しました。福井大が2部に落ちて、1部に上がってきた金沢星稜大学が、星稜高の系列校なのですが、強くてリーグ戦が混戦になってしまいました。
―4年春の2位のときは?
その時は勝ち点制ではなくて、リーグでは10試合の内の何勝何敗で競うのですが、7勝3敗でした。その内の2敗は自分で…。打たれた試合と援護のなかった試合でしたけど、毎試合なんでこんなしょうもないピッチングしかできないんやろ?、やればできるのに、とずっと思ってました。相手チームの監督にも「未完成」と言われる始末で…。チームに迷惑をかけていたので、打たれた時は何か言われてると思ってました(苦笑)。
―投手はチームに何人くらいいたのですか?
部員が40人で10人くらいは投手でした。背番号は18番でした。
―大学時代、新聞に取り上げられたりしたことはありますか?
富山の北日本新聞に写真付きで取り上げられたことがあります。4年の春に優勝候補だった福井工大に0-2で負けたときのことです。ヒットは5安打に抑えたし、ピッチングとして悪くはなかったですが、何をしゃべったかは覚えていません。でも、監督のコメントは覚えていて、確か「打線に援護がなかった。山上はよく投げた」でしたが、自分では2失点でもそうは思わなかったです。結果的に福井工大が8勝2敗となり優勝。チームを優勝決定戦に持ち込めなかったですから。
―4年秋は?
4年の秋は試合には出ずにベンチにだけ入ってました。社会人野球のセレクションを受けたこともあったので。普通は4年は春で引退して、上に行く人は秋も各チーム1、2人くらいはベンチに残ります。
―セレクションはどこを受けたのですか?
京都のニチダイを受けましたが、結果不合格でした。確か投手では西岡君(甲賀健康医療専門学校)が受かったと後で聞きました。
―それで、就職して富山ベースボールクラブに入団されるのですね。
はい。でも、仕事が3交代制で練習に出られない日があって…。本当はずっと富山でやろうと思ってました。30歳を過ぎて体が動かなくなったら、定年まで働いて…、と思ってましたが、まさか1年でやめることになろうとは思いませんでした。
―クラブチームから会社を紹介されるのですよね?
そうです。ホームグラウンドを持っていて環境も良かったので。…でも、会社に就職してもクラブと会社は別物なので、僕に理解が足りていないところがありました。自分からもっと練習や試合に参加できるように働きかけることができませんでした。野球で会社に来ている、と言えれば、もっと練習したい、と主張すればよかったのですが、そうもいかなくて…。野球にたまに行くことになって面白くなくなっていって…、もしかしたら自分から面白くない方向にもっていったのかもしれません。会社はそのクラブの一番のスポンサーだったのですが…。
―つまり、他のみんなと同じように仕事をしていて、3交代制で練習に行けなかった。会社では練習に行くように指示がなかったり、社員の人たちにも野球のための援助、理解が浸透してなかったということですね。でも、そもそも会社員でも3交代制の勤務ではなかなか難しいですよね?
そうですね…(苦笑)。野球をやりたいから入社したのですが、仕事自体に興味があるわけではないし、「3交代でもいいですか?土日もありますよ」と言われて、それを安易に了承してしまったのが悪かったです。そこでチームに相談もしてみましたが、「そこで頑張れ!」と。
―それでは一番大事な練習ができないから大変です。ちなみにどんな仕事だったのですか?
仕事の内容はオペレーション業務で、情報処理やプログラム開発、運用、管理というような分野でした。わかりやすく言うと、銀行のATMのシステムオペレーターやデータ処理といった感じです。
―…難しそうですね?僕にはよくわかりません(苦笑)。
いい会社だったのですよ。給料もとても良かったですし、残業もありませんでした。ただ休みがバラバラで、土日が必ず休みではなかったのです。だから、野球ができなくなって、それでクラブチームにいずらくなったというか、…大学や会社、クラブチームの迷惑を考えろよと色々と言われたりもしましたけど…。チームもいい仕事場を紹介するけど…といったスタンスで…。結局そんな状況で4月から野球は二の次になったということです。やるべきことが後手後手になってしまったのもあります。
―それで残念ながら会社も辞めることになってしまうんですね?
チームを辞めるのはいいとしても、なんで会社まで辞める必要があるの?と言われましたけれども…。確かに働くという点ではいい会社でしたけど…。野球がやりたいから。それでも1年間は説得されてファイアーバーズの練習に参加しながら会社で働いていました。
―ところで、その時期にクラブ選手権に出場したのですね?西武ドームに行ったのですか?
西多摩クラブに勝って、オール足利クラブに負けたのをベンチで観ていました。そのときは足利市民球場でした。試合にも出ないで、今までで一番やる気を失くしていた頃と思いますね。試合にも出たことがありませんでした。
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