『唯我独尊』~東山高軟式野球部・牧紘平主将(捕手) vol.1
東山高軟式野球部・牧紘平主将(捕手) 1991年(平成3年)9月14日生まれ(18歳)
170cm 75kg 右投げ右打ち O型 背番号2
50メートル走6秒7 遠投95メートル
神戸出身、亀岡市在住
第54回全国高校軟式野球選手権大会にて、同校3度目の出場で初のベスト4に進出。「このメンバーが誰ひとり欠けてもここまで勝ち上がれなかった。最高でした」と主将の牧はすがすがしい表情で言った、と報道される。新潟県で開催された「第64回トキめき新潟国体」では、決勝で神戸弘陵(兵庫)を5-1で破り、チームを初優勝に導いた。そして、京都府高校野球連盟から2009年度(平成21年度)優秀選手として特別表彰(軟式の部)を受けた。来年4月から同志社大に進学し、準硬式野球部に入部予定。
※インタビューは12月11日に行いました。お忙しい中、東山高軟式野球部・西川弘基監督にも付き添って頂きました。
―よろしくお願いします。中学はどちらですか?
よろしくお願いします。亀岡市の東輝中学校出身です。
―野球部に入っておられたのですか?
はい。…それと軟式野球チームにも入っていました。
―ええっ?!どういうことですか?
中学の軟式野球部に入りつつ、軟式少年野球チームの「亀岡イースタン」の中学の部でもやっていました。
―…どちらも入っていたということですか?
はい。亀岡市では普通にみんなそうしています。
―…驚きですね(笑)。珍しいですね(笑)。
「亀岡イースタン」は小学校から中学校までずっとで、東輝中学校では入学して野球部に入っていました。
―練習は重なったりしないのですか?
中学は平日が練習、土曜日は午前中だけで日曜日は休みでした。イースタンは土曜日の午後からと日曜日が練習だったので全然問題なかったです。亀岡人は部(中学野球部)とクラブ(少年野球中学の部)を両立する人が大半です。
―面白すぎますね(笑)。そんなことがあるんですね。中学生で硬式のクラブチームに入っている人は、学校では陸上部に入ったりすることが多いですが、軟式プラス軟式というのは聞いたことがなかったです。
友達が敵や味方になったりすることもありますが(苦笑)。試合が重ならないように日程が組まれています。中体連と少年野球連盟の違いはありますが、亀岡は軟式がとにかく盛んな地域です。かといって、野球に力を入れているわけではないですが。この夏、龍谷大平安高で甲子園でスコアラーをしていた井上君は中学は違うけど、少年野球(亀岡イースタン)では一緒にやっていました。
―「少年野球」という言い方がおかしいですね(笑)。
ボールは大会によってマルエスとケンコーと違うこともあったりするのですが(苦笑)。サイズの問題でマルエスが少し大きかったです。それにボールも入れ替えの時期でした。
―そう言えば、ボールも3年くらい前に「よく飛ぶボール」に変わりましたね。バットも飛距離が出る「ビヨンドマックス」が草野球では流行り、僕も使ったことがあります。
よく飛びました(笑)。中学ではどちらのチームでも使えました。が、高校では使えませんでした。高野連では禁止です。
0-0のゲームが多いので社会人のB級やC級で「ビヨンドマックス」がよく使われたと聞きます。でも、その分ピッチャーのレベルが上がったという恩恵も受けました。最近では高校生で、中京高(岐阜)の伊藤君のように142~143キロを投げる軟式の投手もいました。昔は130キロでも十分速い方でした。「ビヨンドマックス」の使用は、中体連がもうすぐやめるかもしれないと何年か前に聞いた覚えがあります。今はちょっとどうだったかわかりませんが。…電話で聞いてみましょうか?(西川監督談)
―いや、大丈夫です(苦笑)。いいです、いいです。すみませんでした。
中京の伊藤さんの話は今でもよく聞きます。
※中体連の全国大会では、2007年7月から「ビヨンドマックス」の使用が禁止になった。
―牧さんは、中学時代はどちらのチームでもキャッチャーでレギュラーだったのですか?打順は?チームの成績はどうでしたか?
そうですね。打順は3番か5番でした。中学の時はあんまりいい成績は残りませんでしたけど、野球部ではキャプテンでした。小学校でもキャプテンで夏の全京都大会でベスト16に入りました。
―少年野球で全京都ベスト16はすごいですね。
それで、高円宮賜杯(マクドナルドカップ)で準優勝して、JR西日本大会に出場したのですが、2回戦で敗退しました。
―お父さんが監督だったりしましたか?ご兄弟は?
いえ、小学校も少年野球もコーチでした。でも、手伝いをしている感じで野球に詳しいわけではありません。3人兄弟で兄が2人いますが、年齢が離れていて、一番上が11歳、次が9歳違います。2番目の兄は兵庫県で今年久々に甲子園に出た野球部でしたけど。
―同年代で今も野球で活躍している人はいますか?
これはアピールなんですけども(笑)、小学校の時、京都代表に選ばれました。「JAPAN京都隊」というのですが、京都から集まった40人が3~4チームを作ってハワイで日米親善野球大会の試合をします。そのときが第1回大会だったんです。チームメイトにはさっきも言っていた平安の井上君、鳥羽の小林君、外大西の西廣君がいました。あと九州国際大付属で甲子園に出場して、今夏3番を打っていた國枝君がいたのですが、彼はケガで行けませんでした。他にも明徳義塾の加藤君がいたり、技術的にはすごい学年だったと思います。
―京都学園の高橋君は知っていますか?
彼は小学校のときは世界大会の選抜に選ばれていましたね。
つづくvol.2へ
東山高軟式野球部・牧紘平主将(捕手) 1991年(平成3年)9月14日生まれ(18歳)
170cm 75kg 右投げ右打ち O型 背番号2
50メートル走6秒7 遠投95メートル
神戸出身、亀岡市在住
第54回全国高校軟式野球選手権大会にて、同校3度目の出場で初のベスト4に進出。「このメンバーが誰ひとり欠けてもここまで勝ち上がれなかった。最高でした」と主将の牧はすがすがしい表情で言った、と報道される。新潟県で開催された「第64回トキめき新潟国体」では、決勝で神戸弘陵(兵庫)を5-1で破り、チームを初優勝に導いた。そして、京都府高校野球連盟から2009年度(平成21年度)優秀選手として特別表彰(軟式の部)を受けた。来年4月から同志社大に進学し、準硬式野球部に入部予定。
※インタビューは12月11日に行いました。お忙しい中、東山高軟式野球部・西川弘基監督にも付き添って頂きました。
―よろしくお願いします。中学はどちらですか?
よろしくお願いします。亀岡市の東輝中学校出身です。
―野球部に入っておられたのですか?
はい。…それと軟式野球チームにも入っていました。
―ええっ?!どういうことですか?
中学の軟式野球部に入りつつ、軟式少年野球チームの「亀岡イースタン」の中学の部でもやっていました。
―…どちらも入っていたということですか?
はい。亀岡市では普通にみんなそうしています。
―…驚きですね(笑)。珍しいですね(笑)。
「亀岡イースタン」は小学校から中学校までずっとで、東輝中学校では入学して野球部に入っていました。
―練習は重なったりしないのですか?
中学は平日が練習、土曜日は午前中だけで日曜日は休みでした。イースタンは土曜日の午後からと日曜日が練習だったので全然問題なかったです。亀岡人は部(中学野球部)とクラブ(少年野球中学の部)を両立する人が大半です。
―面白すぎますね(笑)。そんなことがあるんですね。中学生で硬式のクラブチームに入っている人は、学校では陸上部に入ったりすることが多いですが、軟式プラス軟式というのは聞いたことがなかったです。
友達が敵や味方になったりすることもありますが(苦笑)。試合が重ならないように日程が組まれています。中体連と少年野球連盟の違いはありますが、亀岡は軟式がとにかく盛んな地域です。かといって、野球に力を入れているわけではないですが。この夏、龍谷大平安高で甲子園でスコアラーをしていた井上君は中学は違うけど、少年野球(亀岡イースタン)では一緒にやっていました。
―「少年野球」という言い方がおかしいですね(笑)。
ボールは大会によってマルエスとケンコーと違うこともあったりするのですが(苦笑)。サイズの問題でマルエスが少し大きかったです。それにボールも入れ替えの時期でした。
―そう言えば、ボールも3年くらい前に「よく飛ぶボール」に変わりましたね。バットも飛距離が出る「ビヨンドマックス」が草野球では流行り、僕も使ったことがあります。
よく飛びました(笑)。中学ではどちらのチームでも使えました。が、高校では使えませんでした。高野連では禁止です。
0-0のゲームが多いので社会人のB級やC級で「ビヨンドマックス」がよく使われたと聞きます。でも、その分ピッチャーのレベルが上がったという恩恵も受けました。最近では高校生で、中京高(岐阜)の伊藤君のように142~143キロを投げる軟式の投手もいました。昔は130キロでも十分速い方でした。「ビヨンドマックス」の使用は、中体連がもうすぐやめるかもしれないと何年か前に聞いた覚えがあります。今はちょっとどうだったかわかりませんが。…電話で聞いてみましょうか?(西川監督談)
―いや、大丈夫です(苦笑)。いいです、いいです。すみませんでした。
中京の伊藤さんの話は今でもよく聞きます。
※中体連の全国大会では、2007年7月から「ビヨンドマックス」の使用が禁止になった。
―牧さんは、中学時代はどちらのチームでもキャッチャーでレギュラーだったのですか?打順は?チームの成績はどうでしたか?
そうですね。打順は3番か5番でした。中学の時はあんまりいい成績は残りませんでしたけど、野球部ではキャプテンでした。小学校でもキャプテンで夏の全京都大会でベスト16に入りました。
―少年野球で全京都ベスト16はすごいですね。
それで、高円宮賜杯(マクドナルドカップ)で準優勝して、JR西日本大会に出場したのですが、2回戦で敗退しました。
―お父さんが監督だったりしましたか?ご兄弟は?
いえ、小学校も少年野球もコーチでした。でも、手伝いをしている感じで野球に詳しいわけではありません。3人兄弟で兄が2人いますが、年齢が離れていて、一番上が11歳、次が9歳違います。2番目の兄は兵庫県で今年久々に甲子園に出た野球部でしたけど。
―同年代で今も野球で活躍している人はいますか?
これはアピールなんですけども(笑)、小学校の時、京都代表に選ばれました。「JAPAN京都隊」というのですが、京都から集まった40人が3~4チームを作ってハワイで日米親善野球大会の試合をします。そのときが第1回大会だったんです。チームメイトにはさっきも言っていた平安の井上君、鳥羽の小林君、外大西の西廣君がいました。あと九州国際大付属で甲子園に出場して、今夏3番を打っていた國枝君がいたのですが、彼はケガで行けませんでした。他にも明徳義塾の加藤君がいたり、技術的にはすごい学年だったと思います。
―京都学園の高橋君は知っていますか?
彼は小学校のときは世界大会の選抜に選ばれていましたね。
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