京都アマチュア野球だより

試合結果、選手成績などを写真付きで紹介しています (SINCE 7.06) 著:若林千尋

2009年12月

2009年京都社会人野球ベストナイン

■日本新薬から6選手  2009年京都社会人野球ベストナイン 

 京都府野球連盟と京都新聞社は4日までに、本年度の京都社会人野球ベストナインを選んだ。都市対抗大会と日本選手権に出場した日本新薬から最多の6人が選ばれた。

 最多受賞は日本新薬の藤谷大樹一塁手が6年連続8度目。初受賞は八木慎二塁手(島津製作所)ら3人だった。新人賞は都市対抗で4年ぶりの初戦突破に貢献した滝谷陣投手(日本新薬)。表彰式は9日に行われた。受賞者は次のみなさん。



▽投 手 田中 大介 (日本新薬) 2年ぶり3回目
▽捕 手 堂前 篤史 (日本新薬) 2年ぶり3回目
▽一塁手 藤谷 大樹 (日本新薬) 6年連続8回目
▽二塁手 八木 慎  (島津製作所)初受賞
▽三塁手 松山 家己 (ニチダイ) 初受賞
▽遊撃手 高島 佑介 (ニチダイ) 2年連続3(?)回目
▽外野手 森川 欽太 (日本新薬) 2年連続2回目
▽外野手 小林 世拓 (日本新薬) 2年連続5回目
▽外野手 山口 慶彦 (島津製作所)2年ぶり2回目
▽指名打者 箸尾谷 英樹(日本新薬) 初受賞

▽新人賞 滝谷 陣(投手、日本新薬)




■日本新薬は4人、ニチダイ3人  2008年京都社会人野球ベストナイン

▽投 手 村田 智徳 (日本新薬) 初受賞
▽捕 手 東向 勇樹 (ニチダイ)
▽一塁手 藤谷 大樹 (日本新薬) 5年連続7回目 ←今季通算打率.462
▽二塁手 岩村 将悟 (京都ファイアーバーズ)
▽三塁手 前川 宏文 (Ritsベースボールクラブ) 三菱自動車京都から移籍後初受賞
▽遊撃手 高島 佑介 (ニチダイ)
▽左翼手 奥脇 佳宣 (ニチダイ)
▽中堅手 小林 世拓 (日本新薬)
▽右翼手 森川 欽太 (日本新薬)
▽指名打者 山中 憲彦 (京都ファイアーバーズ)

▽新人賞 釜谷 充 (三塁手、日本新薬)



2007年以前の京都社会人野球ベストナイン受賞者

2009年滋賀社会人野球ベストナイン

■OBC高島から7選手  2009年滋賀社会人野球ベストナイン

 滋賀県野球連盟と京都新聞社は10日までに、本年度の滋賀県社会人野球ベストナインを選んだ。指名打者を含めた10人のうち、OBC高島勢が最多の7人を占めた。

 中村光佑三塁手(OBC高島)は3度目の受賞で、初受賞は吹石泰隆投手(OBC高島)ら8人を数えた。新人賞は全大津野球団の浅井邦雄投手。日本選手権に初出場するなどシーズンを通じて活躍したOBC高島に特別賞が贈られた。

 表彰式は20日、大津市内のホテルで行われた。受賞者は次のみなさん。



▽投 手 吹石 泰隆 (OBC高島)
▽捕 手 本田 雅輝 (OBC高島)
▽一塁手 福田 佳三 (OBC高島)
▽二塁手 吉永 将人 (OBC高島)
▽三塁手 中村 光佑 (OBC高島) 3年連続3回目
▽遊撃手 江口 智紀 (近江八幡ク)
▽外野手 木原 隆介 (甲賀健康医療専門学校)
▽外野手 浅野 稔 (OBC高島)
▽外野手 川村 誠 (OBC高島) 2年連続2回目
▽指名打者 射場 和成(全大津野球団)

▽新人賞 浅井 邦雄(全大津野球団)
▽敢闘賞 鳥井 郁弥、藤岡 拓也(甲賀健康医療専門学校)、毛利 好宏(近江八幡ク)

▽特別賞 OBC高島




■OBC高島から7人  2008年滋賀社会人野球ベストナイン

▽投 手 安田 恵隆(OBC高島) 初受賞
▽捕 手 納谷 嶺太(甲賀健康医療専門学校) 初受賞
▽一塁手 三上 幸二郎(OBC高島) 2年連続
▽二塁手 本庄 竜也(甲賀健康医療専門学校) 初受賞
▽三塁手 中村 光佑(OBC高島) 2年連続2回目
▽遊撃手 川口 隼人(OBC高島) 初受賞
▽外野手 谷内 聖樹(全大津野球団) 初受賞
▽外野手 岡田 宣行(OBC高島) 初受賞
▽外野手 宮田 佳 (OBC高島) 初受賞
▽指名打者 川村 誠(OBC高島) 初受賞

▽新人賞 鳥井 郁弥(甲賀健康医療専門学校)
▽敢闘賞 安井 俊裕(瀬田クラブ)、吉田 雄樹(全大津野球団)、林 賢太郎(甲賀健康医療専門学校)
▽特別賞 宮田 和希(甲賀健康医療専門学校) ←埼玉西武ドラフト6位指名



2007年以前の滋賀社会人野球ベストナイン受賞者

『唯我独尊』~東山高軟式野球部・牧紘平主将(捕手) vol.1

『唯我独尊』~東山高軟式野球部・牧紘平主将(捕手) vol.1

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東山高軟式野球部・牧紘平主将(捕手) 1991年(平成3年)9月14日生まれ(18歳)

170cm 75kg 右投げ右打ち O型 背番号2

50メートル走6秒7 遠投95メートル

神戸出身、亀岡市在住



第54回全国高校軟式野球選手権大会にて、同校3度目の出場で初のベスト4に進出。「このメンバーが誰ひとり欠けてもここまで勝ち上がれなかった。最高でした」と主将の牧はすがすがしい表情で言った、と報道される。新潟県で開催された「第64回トキめき新潟国体」では、決勝で神戸弘陵(兵庫)を5-1で破り、チームを初優勝に導いた。そして、京都府高校野球連盟から2009年度(平成21年度)優秀選手として特別表彰(軟式の部)を受けた。来年4月から同志社大に進学し、準硬式野球部に入部予定。


※インタビューは12月11日に行いました。お忙しい中、東山高軟式野球部・西川弘基監督にも付き添って頂きました。


―よろしくお願いします。中学はどちらですか?

よろしくお願いします。亀岡市の東輝中学校出身です。


―野球部に入っておられたのですか?

はい。…それと軟式野球チームにも入っていました。


―ええっ?!どういうことですか?

中学の軟式野球部に入りつつ、軟式少年野球チームの「亀岡イースタン」の中学の部でもやっていました。


―…どちらも入っていたということですか?

はい。亀岡市では普通にみんなそうしています。


―…驚きですね(笑)。珍しいですね(笑)。

「亀岡イースタン」は小学校から中学校までずっとで、東輝中学校では入学して野球部に入っていました。


―練習は重なったりしないのですか?

中学は平日が練習、土曜日は午前中だけで日曜日は休みでした。イースタンは土曜日の午後からと日曜日が練習だったので全然問題なかったです。亀岡人は部(中学野球部)とクラブ(少年野球中学の部)を両立する人が大半です。


―面白すぎますね(笑)。そんなことがあるんですね。中学生で硬式のクラブチームに入っている人は、学校では陸上部に入ったりすることが多いですが、軟式プラス軟式というのは聞いたことがなかったです。

友達が敵や味方になったりすることもありますが(苦笑)。試合が重ならないように日程が組まれています。中体連と少年野球連盟の違いはありますが、亀岡は軟式がとにかく盛んな地域です。かといって、野球に力を入れているわけではないですが。この夏、龍谷大平安高で甲子園でスコアラーをしていた井上君は中学は違うけど、少年野球(亀岡イースタン)では一緒にやっていました。


―「少年野球」という言い方がおかしいですね(笑)。

ボールは大会によってマルエスとケンコーと違うこともあったりするのですが(苦笑)。サイズの問題でマルエスが少し大きかったです。それにボールも入れ替えの時期でした。


―そう言えば、ボールも3年くらい前に「よく飛ぶボール」に変わりましたね。バットも飛距離が出る「ビヨンドマックス」が草野球では流行り、僕も使ったことがあります。

よく飛びました(笑)。中学ではどちらのチームでも使えました。が、高校では使えませんでした。高野連では禁止です。


0-0のゲームが多いので社会人のB級やC級で「ビヨンドマックス」がよく使われたと聞きます。でも、その分ピッチャーのレベルが上がったという恩恵も受けました。最近では高校生で、中京高(岐阜)の伊藤君のように142~143キロを投げる軟式の投手もいました。昔は130キロでも十分速い方でした。「ビヨンドマックス」の使用は、中体連がもうすぐやめるかもしれないと何年か前に聞いた覚えがあります。今はちょっとどうだったかわかりませんが。…電話で聞いてみましょうか?(西川監督談)


―いや、大丈夫です(苦笑)。いいです、いいです。すみませんでした。

中京の伊藤さんの話は今でもよく聞きます。

※中体連の全国大会では、2007年7月から「ビヨンドマックス」の使用が禁止になった。


―牧さんは、中学時代はどちらのチームでもキャッチャーでレギュラーだったのですか?打順は?チームの成績はどうでしたか?

そうですね。打順は3番か5番でした。中学の時はあんまりいい成績は残りませんでしたけど、野球部ではキャプテンでした。小学校でもキャプテンで夏の全京都大会でベスト16に入りました。


―少年野球で全京都ベスト16はすごいですね。

それで、高円宮賜杯(マクドナルドカップ)で準優勝して、JR西日本大会に出場したのですが、2回戦で敗退しました。


―お父さんが監督だったりしましたか?ご兄弟は?

いえ、小学校も少年野球もコーチでした。でも、手伝いをしている感じで野球に詳しいわけではありません。3人兄弟で兄が2人いますが、年齢が離れていて、一番上が11歳、次が9歳違います。2番目の兄は兵庫県で今年久々に甲子園に出た野球部でしたけど。


―同年代で今も野球で活躍している人はいますか?

これはアピールなんですけども(笑)、小学校の時、京都代表に選ばれました。「JAPAN京都隊」というのですが、京都から集まった40人が3~4チームを作ってハワイで日米親善野球大会の試合をします。そのときが第1回大会だったんです。チームメイトにはさっきも言っていた平安の井上君、鳥羽の小林君、外大西の西廣君がいました。あと九州国際大付属で甲子園に出場して、今夏3番を打っていた國枝君がいたのですが、彼はケガで行けませんでした。他にも明徳義塾の加藤君がいたり、技術的にはすごい学年だったと思います。


―京都学園の高橋君は知っていますか?

彼は小学校のときは世界大会の選抜に選ばれていましたね。


つづくvol.2へ

『唯我独尊』~東山高軟式野球部・牧紘平主将(捕手) vol.2

『唯我独尊』~東山高軟式野球部・牧紘平主将(捕手) vol.2

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―そして、東山高に入学されます。印象はありましたか?

男子校だというイメージくらいで(笑)。軟式があるのも知りませんでした。


―最初は硬式野球部に入っておられたと聞きました。

はい。当時は尾迫監督の1年目でした。国語の先生なんですが、野球がすごくうまくて。佛教大時代は京滋大学野球リーグで4年のときに右打者で首位打者を獲って、遊撃手でベストナインに選ばれ、最優秀選手賞で表彰されたそうです。


その時代は神宮で活躍した近大の黄金期でした。二岡(広陵―日ハム)、藤井(近大附属―近鉄、楽天)、宇高(PL学園―近鉄―横浜、引退)がいて強かったです。尾迫監督は岡島さん(巨人―日ハム―レッドソックス)が3年のときの1年生で、ソフトバンクの斉藤さん(南京都)と同期ですね。(西川監督談)

※1997年に近大は史上初のアマチュア五冠を達成した。(関西学生春のリーグ戦、秋のリーグ戦、全日本大学野球選手権、明治神宮大会、社会人選手権優勝チームとの全日本アマチュア野球王座決定戦の五大会で優勝)


―1年夏の東山の戦績は?

ベスト16で南丹に負けました。西京極ではスタンドで応援していました。


―いつ頃退部されたのですか?

10月頃です。色々あって…。ずっと軟式に行きたかったです。一歩を踏み出すタイミングだけでした。


―硬式から軟式野球部に入るのに抵抗はなかったですか?

同じクラスだった軟式野球部の杉本君(京都ファイアーバーズ)が親しみやすくて仲が良かったのですが、軟式野球部のことをよく話してくれて…。やりたくない野球をやっていても面白くないし…。思い切って親に話してみました。


―硬式の東山は楽しくできませんでしたか?

入学したての1年春は府大会で準優勝でした。立命館が優勝だったのですが、応援するのが好きで、その大会はむっちゃ楽しかったです。でも、決勝で大敗してしまったのです。…それからちょっとずつ意識も変わってきて…。


―どう変わってきたのですか?

…野球に対する厳しさならよかったのですが、そうではなかったので。


―良かったら話してくれませんか?

…辞める直前のことなんですが、新チームが始まって1年対2年で紅白戦をしたのです。そしたら1年が勝ってしまって…。みんないいプレーしたのです。


―なるほど。それで何かあったわけですか?

…別に暴力があったわけではないですけれども、活躍した人が集められたりして…。いい人もいるがひねくれた人もいましたね。


―……書いてもいいですか?

はい、むしろ書いてもらいたいくらいです。そのために言うのですから。


―わかりました。いじめではないけど不本意だったということですね。

はい、そんな感じです。先輩が厳しいのは当たり前やけど、何か違うやろと…。それが主な理由です。


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―いつ軟式野球部に?

10月からです。硬式とは雰囲気が違って、純粋に楽しかったです。毎年2、3人くらい硬式から軟式へ移っているようですし、あまり抵抗もなかったし、あまり変わらなかったです。割とみんなと仲がよかったですし。自然な流れとも思います。でも、硬式をやっていなかったら、今の自分はないと。


―硬式で仲の良かった人は?

主将の吉田君とは仲が良くてよくしゃべる関係でした。


―硬式でどんなことを学びましたか?

基礎練習ですね。キャッチボールのやり方など、一から硬式で教えてもらって、キャッチャーのことや技術面でも知らなかったことを教えてもらいました。


―例えばどんなことですか?

配球やピッチャーの考え、試合展開のことですが、それまであまり考えたことがなかったです。


―もう少し詳しくお願いします。

配球ではカウントの作り方です。バッターが上位なのかクリーンアップなのかなど、状況に応じて変えることの大事さです。それは軟式でも同じです。そういうことを覚えようと思ったきっかけになりました。


―そこにおられるので恥ずかしいかもしれませんが、西川監督と出会って高校での軟式が始まるわけですね?

西川先生は31歳で、選手目線で考えてくださるし、考え方も若いので僕らもやりやすいです。とにかく何でも話をしています。


―硬式の尾迫監督は32歳ですよね?

硬式は100人くらいいますし、レギュラーの方にいることが多かったから関わりがなかったです。だから監督の考えも1年だったのでわかりにくかったという気がします。

―軟式野球部は何人くらいですか?

1年から3年までで夏前の時期で20人くらいです。だから、西川監督も一人ひとりに気を配れるし、野球から離れても歳が近いので話も聞いてくれます。もちろん野球の時は一線を引くけじめはがっちりつけていますが。エースの森本とのコミュニケーションの取り方など軟式をやっていないとわからないことを教えてもらいました。


―西川先生は社会や体育の先生なのですか?

いえ、他の仕事をもっておられます。東山軟式野球部のOBなのですが、仕事が終わってから練習に来てくださっているので頼もしいです。

―他に指導して下さるのですか?

坪井部長ですね。西川先生に比べると来られませんが、数学の先生で監督の同い年です。仲はいいですけど、二人が敬語で話しているので面白いです(笑)。やっぱりタメ口で話そうか、ということになったらしいですが、やっぱり違うかったみたいで一日で戻りました(笑)。


つづくvol.3へ

『唯我独尊』~東山高軟式野球部・牧紘平主将(捕手) vol.3

『唯我独尊』~東山高軟式野球部・牧紘平主将(捕手) vol.3

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―軟式に移られて初めての大会は1年秋ですが、出場はなかったですよね?

はい。まだ硬式だった時に、軟式は府大会で優勝したので近畿大会を観に行きました。


―それでは、2年春から試合に出るようになりましたか?

はい、出るようになりました。府大会で準優勝(優勝は龍谷大平安)して近畿大会(明石球場)に出場しました。1回戦は神戸弘陵(兵庫)に勝ちましたが、2回戦で耐久(和歌山)に負けました。


―2年夏や秋はどうでしたか?秋は3年連続11回目の府大会優勝でしたが。

夏は府大会で優勝して、近畿大会の初戦で比叡山(滋賀)に負けてしまいました。秋も府大会決勝で立命館を1-0で下して優勝したのですが、近畿大会初戦で耐久(和歌山)に負けました。聞いてほしいのですが、その年に近畿大会で耐久に負けた2試合はどちらもエラー数で勝敗が決まったのです!…エラー数で決めるっておかしいなあと思っていました。エラーしている数が多いのに点が同じということは、抑えているということですよね?!…今年からその決め方はなくなったのですけども。すごく悔しい思いをしました。


―…そう言われるとそうですね。面白い考え方です(笑)。エラーが多くても点を取られなかったらいいわけですからね(笑)。それでは、2年春からレギュラー(正捕手)だったのですね。すぐレギュラーになれましたか?

僕が軟式に入る前は、チームにキャッチャーがいない状態だったので、外野手の先輩がキャッチャーをしていました。でも、僕が入って外野にまた戻されたという形になります。打順は3番とか6番でした。


―エースの森本投手も途中入部だったと聞きましたが。硬式野球部に入部されていたのですか?

硬式には入部していません。練習は観に行ったそうですが、あまり面白そうじゃなかったようで、軟式の先輩に「一緒にやらないか」と誘われて、僕の入るちょっと前に入ったらしいです。そして、1年秋から投げていました。


―3年春は?

府大会で優勝して近畿大会(橿原球場)に出場することが決まっていましたが、新型インフルエンザの影響で大会がなくなってしまいました。それで、出場記念としてペンをもらいました(苦笑)。


―そして、3年夏を迎えます。チームとしての手応えはありましたか?

もちろん、ありました。冬に走り込みをしていました。僕個人で練習以外でずっと走っていたのですが、「俺も俺も」と他の部員もそうしていたようで、今までにないみんなの本気さを感じて、キャプテンとしてとても嬉しかったです。それに、みんなと仲がいいので色んな意見交換ができたと思います。秋はチームを引っ張っている感じがありましたが、春・夏になると誰がキャプテンでもおかしくないくらいでした。


―仲が良いというのはいいことですね。

でも、仲がいい反面どうしてもきつく言えなくなることがあって…。去年まではみんな仲が良すぎて言い切れなくて、詰めないといけないところを詰め切れなくて…それで2年夏は負けたと思います。


―今年の3年生のチームは違っていた。

今年はプライベートは別でした。野球をする時は全員がライバルで、高め合っていかなければいけません。3年生がチームみんなに全員に意見を言ったり、注意をしたり、そういうのがすごく助かりました。チームがとてもよくまとまっていました。


―冬に走りこんだ話をもっと聞かせてください。

どこの高校よりも冬によく走りました。夏前もです。走るメニューが多かったです。冬のメニューは大外を3キロ走って、山へ行って坂道50メートルを10本。グラウンドに帰ってきて1500メートル走って、2人1組でトラック1周300メートルを1人150メートル半周走ってタッチして、もう1人が残り半周走るというのを10本走りました。ストップウォッチでタイムも計ります。それから室内でボールを等間隔に5個置いて1個目まで行って帰る。2個目まで行って帰る…というのを15本走って、横を向いて5メートル走ってタッチしてダッシュで戻るというのを5種目終わると次の人がするというように、それを10~15本するというような…。


―それぐらいでいいです(笑)。山科でも室内はあったのですか?

東山はグラウンド、室内に恵まれていて、山科は室内が広かったです。硬式がグラウンドを使う時、軟式は室内で練習できない日はなかったので。


―練習は遅くまでしていましたか?

普通は16時~21時ぐらいでした。グラウンドを出るのが最後で、硬式よりも軟式がむしろ長い感じでした。今は新しい醍醐グラウンドで練習しているようですが、残念ながらここの室内ではノックやバッティングができないので、前の方がよかったと思います。それに施設の利用時間というか練習時間が決まっているのであまり練習できないので。


―色んな所に遠征することは多いのですか?

全国大会出場が目標なので、泊まりで岐阜の中京には毎年練習試合で行きます。他に和歌山の新宮にも行きます。運転手さんがスクールバスで送ってくれたり、マイクロバスを頼んだりします。


―軟式でも年末年始以外、練習や試合という感じなのでしょうか?

そうですね。ほぼそんな感じです。木曜日はグラウンドが軟式は使えないのでオフなのですが、学校で走りますので。



―かなり脱線しましたが、いよいよ3年夏です。全国大会の準決勝で延長24回の激闘がありましたが、京都大会はどうでしたか?

3年夏はシード校でしたので初戦が準決勝の龍谷大平安戦でした。その試合が延長15回で1-0という厳しい試合でした。そして決勝の立命館戦がまたそれよりも厳しくて…。3点差で最終回を迎えていました。9回2死満塁までいって、そこで五月女が右中間に走者一掃の同点ツーベースを打ってくれたのです。それで息を吹き返し、延長で勝ちました。僕が四球で出て送りバント。暴投、暴投で1点取った後、新谷がタイムリーで5-3でした。冬の差が出たと思いました。


―夏の府大会で優勝し、近畿大会に進出します。

近畿大会は大阪、兵庫はチーム数が多いので全国に直結していますが、京都は奈良、滋賀、和歌山と代表権をかけて戦います。


―どこの県が軟式が強いとかあるのですか?京都では苦しんでも紀三井寺で行われた近畿大会での大津商戦や天理戦はいずれも完封勝ちでしたが、余裕がありましたか。

いや、特にありません。いつも接戦ばかりでそんなに余裕がないですし、軟式は点が取れないので。


―硬式と軟式で戦い方が違いますね。どんな違いがありますか?

そうですね。三塁ランナーがスタートを切って、バッターはゴロを打つ「タタキ」があります。ゴロを打つとよく跳ねる(弾む)のでそれを望むところがあります。また、打球が飛ばないのでタッチアップはほとんどありません。


つづくvol.4へ
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