京都アマチュア野球だより

試合結果、選手成績などを写真付きで紹介しています (SINCE 7.06) 著:若林千尋

京都@社会人野球部ログ

2009年京都社会人野球ベストナイン

■日本新薬から6選手  2009年京都社会人野球ベストナイン 

 京都府野球連盟と京都新聞社は4日までに、本年度の京都社会人野球ベストナインを選んだ。都市対抗大会と日本選手権に出場した日本新薬から最多の6人が選ばれた。

 最多受賞は日本新薬の藤谷大樹一塁手が6年連続8度目。初受賞は八木慎二塁手(島津製作所)ら3人だった。新人賞は都市対抗で4年ぶりの初戦突破に貢献した滝谷陣投手(日本新薬)。表彰式は9日に行われた。受賞者は次のみなさん。



▽投 手 田中 大介 (日本新薬) 2年ぶり3回目
▽捕 手 堂前 篤史 (日本新薬) 2年ぶり3回目
▽一塁手 藤谷 大樹 (日本新薬) 6年連続8回目
▽二塁手 八木 慎  (島津製作所)初受賞
▽三塁手 松山 家己 (ニチダイ) 初受賞
▽遊撃手 高島 佑介 (ニチダイ) 2年連続3(?)回目
▽外野手 森川 欽太 (日本新薬) 2年連続2回目
▽外野手 小林 世拓 (日本新薬) 2年連続5回目
▽外野手 山口 慶彦 (島津製作所)2年ぶり2回目
▽指名打者 箸尾谷 英樹(日本新薬) 初受賞

▽新人賞 滝谷 陣(投手、日本新薬)




■日本新薬は4人、ニチダイ3人  2008年京都社会人野球ベストナイン

▽投 手 村田 智徳 (日本新薬) 初受賞
▽捕 手 東向 勇樹 (ニチダイ)
▽一塁手 藤谷 大樹 (日本新薬) 5年連続7回目 ←今季通算打率.462
▽二塁手 岩村 将悟 (京都ファイアーバーズ)
▽三塁手 前川 宏文 (Ritsベースボールクラブ) 三菱自動車京都から移籍後初受賞
▽遊撃手 高島 佑介 (ニチダイ)
▽左翼手 奥脇 佳宣 (ニチダイ)
▽中堅手 小林 世拓 (日本新薬)
▽右翼手 森川 欽太 (日本新薬)
▽指名打者 山中 憲彦 (京都ファイアーバーズ)

▽新人賞 釜谷 充 (三塁手、日本新薬)



2007年以前の京都社会人野球ベストナイン受賞者

2009年滋賀社会人野球ベストナイン

■OBC高島から7選手  2009年滋賀社会人野球ベストナイン

 滋賀県野球連盟と京都新聞社は10日までに、本年度の滋賀県社会人野球ベストナインを選んだ。指名打者を含めた10人のうち、OBC高島勢が最多の7人を占めた。

 中村光佑三塁手(OBC高島)は3度目の受賞で、初受賞は吹石泰隆投手(OBC高島)ら8人を数えた。新人賞は全大津野球団の浅井邦雄投手。日本選手権に初出場するなどシーズンを通じて活躍したOBC高島に特別賞が贈られた。

 表彰式は20日、大津市内のホテルで行われた。受賞者は次のみなさん。



▽投 手 吹石 泰隆 (OBC高島)
▽捕 手 本田 雅輝 (OBC高島)
▽一塁手 福田 佳三 (OBC高島)
▽二塁手 吉永 将人 (OBC高島)
▽三塁手 中村 光佑 (OBC高島) 3年連続3回目
▽遊撃手 江口 智紀 (近江八幡ク)
▽外野手 木原 隆介 (甲賀健康医療専門学校)
▽外野手 浅野 稔 (OBC高島)
▽外野手 川村 誠 (OBC高島) 2年連続2回目
▽指名打者 射場 和成(全大津野球団)

▽新人賞 浅井 邦雄(全大津野球団)
▽敢闘賞 鳥井 郁弥、藤岡 拓也(甲賀健康医療専門学校)、毛利 好宏(近江八幡ク)

▽特別賞 OBC高島




■OBC高島から7人  2008年滋賀社会人野球ベストナイン

▽投 手 安田 恵隆(OBC高島) 初受賞
▽捕 手 納谷 嶺太(甲賀健康医療専門学校) 初受賞
▽一塁手 三上 幸二郎(OBC高島) 2年連続
▽二塁手 本庄 竜也(甲賀健康医療専門学校) 初受賞
▽三塁手 中村 光佑(OBC高島) 2年連続2回目
▽遊撃手 川口 隼人(OBC高島) 初受賞
▽外野手 谷内 聖樹(全大津野球団) 初受賞
▽外野手 岡田 宣行(OBC高島) 初受賞
▽外野手 宮田 佳 (OBC高島) 初受賞
▽指名打者 川村 誠(OBC高島) 初受賞

▽新人賞 鳥井 郁弥(甲賀健康医療専門学校)
▽敢闘賞 安井 俊裕(瀬田クラブ)、吉田 雄樹(全大津野球団)、林 賢太郎(甲賀健康医療専門学校)
▽特別賞 宮田 和希(甲賀健康医療専門学校) ←埼玉西武ドラフト6位指名



2007年以前の滋賀社会人野球ベストナイン受賞者

『唯我独尊』~京都ファイアーバーズ・山上直輝投手 vol.1

『唯我独尊』 ~京都ファイアーバーズ・山上直輝投手 vol.1

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京都ファイアーバーズ・山上直輝投手

1983年7月29日生まれ(26歳) 178cm 75kg 左投げ左打ち

京都府舞鶴市出身 高岡第一高―高岡法科大―富山ベースボールクラブ


 第72回センバツで甲子園に初出場する。同学年に2001年ドラフトで8巡目指名された高橋聡文(中日)投手がいる。(ちなみに第72回センバツでは京都勢は鳥羽高がベスト4へ進出。東海大相模高が優勝、智弁和歌山高が準優勝だった。)


―まず、チームに入団した経緯をお聞かせください。

チームは今4年目なんですが、3年前の秋にトライアウトを受けました。峰山で行われて、榊原さん(前監督)にその日のうちに合格を伝えられました。3人の応募の中で3人が合格しましたけど(笑)。


―どんなテストだったのですか?

ブルペンでピッチングをしただけなのですが、竹内さん(現監督)に「たぶん、合格ですよ。1球だけすごいスライダーがありました」と言われました。


―竹内さんは今は監督ですね。同い年なんですね?どうですか?

むしろやりやすいです。でも、野球の時は敬語で話します。それ以外は友達として接していて、たまに飲みに行ったりもします。


―竹内監督は近江高の出身で先発投手として活躍されました。甲子園では準優勝。それで西武ライオンズに入団されました。

もちろん、知っています。甲子園のときはテレビで観ていました。(ピッチャーの)3人はすごいなあ、と。特に左の島脇投手の印象が強いです。


―元プロ野球選手の竹内監督から学ぶことは多いですよね。

そうですね。今までは野球を深く知らなかったと。ただやっていただけで、良かった、悪かっただけしか思えなかったですね。ファイアーバーズに来て、より野球は深いし、面白いと知りました。そういう面で監督に感謝しています。野球に関しては聞く一方で、次につながるアドバイスをもらっているので、日々成長している気がします。チームメイトにも考え方とか色々聞けて良かったです。


―野球を始められたきっかけは?

友達に誘われてスポーツ少年団に入りました。少年野球ではエースでした。


―中学時代は、福知山成美の長岡投手と同じボーイズの舞鶴ベースボールクラブのご出身ですね。

それが長岡君のことは全然覚えてないんですよ。練習に顔を出してピッチャーも何人か見たはずなのに(苦笑)。先輩では阪神の杉山投手もそうです。僕とは入れ替わりでした。そのときは投手ではなかったそうです。ボーイズは市内では舞鶴ベースボールクラブだけしかないです。中学のクラブは陸上部でした。駅伝のときだけの活動でしたが。(笑)


―舞鶴ベースボールクラブでの実績などについて教えてください。また京都のボーイズではどこが強かったですか?

特にこれといってないですね。そう言えば、1つ上の内海さん(敦賀気比高―東京ガス―巨人)や同い年の今江(PL学園高―ロッテ)のいた京都田辺と府大会決勝で対戦したことがあります。負けましたけど、守備固めでファーストを守ったのは覚えています。当時の京都田辺は別格でした。


―エースだったのですか?

エースは萩野(若狭高―富山大―福井ミリオンドリームス)で、次が高橋(高岡第一高―中日)で僕は3番手でした。左が3人でした(笑)。一つ下では横山(福知山成美―近鉄―オリックス)がキャッチャーをやってました。横山はよく打つし体もでかくて、肩も強くて、3年生の中に溶け込んでいました。


―ずっとピッチャーというわけでもないのですか?

小中はファーストや外野もやっていましたが、主に控えの投手でしたね。中学の時でもまだ小さかったです。


―高校は富山県の高岡第一高に入学されます。2年時に第72回(2000年)センバツ大会に初出場されてますね。チームの成績はどうでしたか?

1年夏は県大会で準優勝でした。1年秋は北信越大会まで勝ち進んで、準決勝で金子(トヨタ自動車―オリックス)のいた長野商に1-2のサヨナラで負けました。高岡商が同じくベスト4で、3位決定戦に勝ちました。でも、北信越のセンバツの枠は2校でした。結果として北信越大会で優勝し、明治神宮大会で準優勝した敦賀気比と長野商が選ばれました。でも、…それが3月になってから敦賀気比に不祥事があって…、補欠校に選ばれていたおかげで繰り上げでセンバツに出場することになったのです。


―ええっ?そうだったんですか?…で、調べたのですが、甲子園では…投げなかったのですよね。

はい、投げていません。ベンチにも入ってなくて、バックネットのところでボールボーイをやりました。初戦で国士舘に0-2で負けました。2時間くらいで終わりました。1つ上の島崎さんが完投したのですが、1回戦負けです。国士舘の先発はカープの小島(国士舘高-国士舘大-広島)さんでした。3安打で完封されました。


―投手としてはどうでしたか?1年から教えてください。

1年の秋の予選でベンチに入りました。が、それ以降はひじが痛くて投げられませんでした。2年の秋に左ひじを手術しました。最後の夏はベンチにも入っていません。


―中日ドラゴンズで活躍中の同僚、高橋投手のことをお聞かせください。

高橋は中学の時ひじを痛めていたので、高校へ入学する時は野手としてでした。バッティングもよかったですから。ピッチャーに戻ったのは2年の春で、いいのは中学の時から知っていたのでヤバイと思いました。野手で行くというから安心していたのに(笑)。高岡第一に高橋と一緒に行ってどうかとは思いましたが、振り返ってみてもやはりそれでも行ったと思うし、一緒に野球ができて良かったです。


―センバツではボールボーイをしたのですか?

本当はスタンドで応援したかったのですが、じゃんけんで負けました(笑)。春なので寒くてジャージを一枚上に着て。バックネットからマウンドに行ってロジンバックを置いて帰ってきたり…。そのときマウンドから甲子園の風景を見て感動しましたね。


―土は持って帰りましたか?

甲子園練習の時、持って帰りました。当時はひじ痛でキャッチボールもできない状態で、もう来られないかもしれないと。


―同僚の高橋投手のことをもう少し聞きます。

センバツ後の2年の春にエースの島崎さん一人だけの状況になって、高橋はピッチャーを再開しました。左で140キロの速球と大きなカーブを武器に三振を取るタイプでした。3年夏の1回戦ではノーシードでしたが、優勝候補の富山商と対戦しましたが、3-0で完封しました。確かスカウトも来ていたと思います。でも、僕はプロに行けるレベルとは思ってなかったですね。近すぎてわからなかったかもしれない。大事な時にケガをして、本当は長いイニングを投げられない状態でもありました。県大会決勝では、下級生が先発して、大事なところで高橋が登板しましたが、滑川に負けました。その滑川も甲子園では1回戦で金沢に負けました。


―その3年夏の甲子園で日大三が優勝して、竹内監督がいた近江が準優勝したということですね。

そうですね。近江で投げていた竹内監督とこうやって一緒のチームでやることになるなんて不思議な感じがします。



―ところで、高橋投手は打者としてはどうだったのですか?

センバツでは確か3打数ノーヒットだったと思います。でも、バッターでプロに行くのかなあと思っていました。3年の夏前にスカウトが観に来ていて、ケガでピッチングが見てもらえないので、監督が試合に代打で出したことがあります。そのとき初球をライトにホームランを打ってしまいました。打者でもいけると思っていました。


―プロの1軍のマウンドで投げている姿を観た感想を教えてください。

テレビで観てたら、球速が150キロ近くになり、10キロもアップしていました。「そんなに速かったっけ?」と思いました(笑)。



つづくvol.2へ

『唯我独尊』~京都ファイアーバーズ・山上直輝投手 vol.2

『唯我独尊』 ~京都ファイアーバーズ・山上直輝投手 vol.2

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―それではお話を聞いた限りでは、高校時代は公式戦では投げていないということですか?

ほとんど投げていませんね。…もしかしたら1イニングぐらい投げたかもしれません。


―ひじがずっと痛かった?

1年秋にひじが痛くなってきて…、県内の病院で痛み止めの注射を打ってもらってやっとできるかどうかでした。でも、安静にしていれば直ると思っていました。結局、痛くて、病院の先生には「この状態では投手をあきらめろ、野球をあきらめろ」と言われました。どこの先生にも「せめてピッチャーはやめた方がいい」と言われましたね。


―それで、手術をしたのが2年の秋だったんですか?

はい。それまでにスポーツ系の病院を4ヶ所くらい回ってたのですが、どこも「手術しても痛みが変わらないかもしれない、直るかわからない」と言われました。それで中学の時に高橋が見てもらっていた大阪のスポーツ・ドクターのところに行きました。それまでにも探していたのですが見つからず、「いいよ」と言ってくれたので行きました。そしたら、「手術しよう。治らんと思ったら手術せえへんから。スケジュールはいつが空いてるの?」と聞かれました。そして、2ヶ月間も入院してリハビリしました。ちょうど富山国体の行われた時期ですね。日本新薬やNTT西日本、近大、近鉄の選手も入院してました。とにかく、ひじが痛くてもいつかは治ると思ってましたし、それで野球をやめたいと思ったことは一度もなかったですね。でも、ケガをしている期間が長く、僕の高校野球は、高校1年の夏までに終わったというのが実感です。


―手術してから復帰したのですよね?ひじの調子は?

ベンチに入れるように頑張りましたが、練習試合では投げたら打たれました。3年の春季大会後、メンバーに入り遠征で福井高校に行ったときに、舞鶴のボーイズチームで同級生だった4番にセンターに弾丸ライナーでホームランを打たれてしまいまして、それ以来試合に出られなくなったように思いますね(苦笑)。それでも監督には「(ひじは)痛くありません」と言ってました。甲子園に出たかったので。


―聞いていいのかどうか…、ひじは具体的にどういう症状だったのですか?

レントゲン写真を見たら、親指の爪ぐらいの大きさの骨が外に出ていました。MRI検査では靭帯から出血していて、後ろにいた先生が2、3人寄って来て、また離れて小さい会議が開かれました(苦笑)。関節ねずみと靭帯や神経の損傷の3つという感じでしょうか。今でもピンで固定していますし、靭帯がゆるいのをつり橋みたいに締めています。今でも痛くないわけではないですが、これくらいならみんなやっていると思うレベルです。痛いけど全力で投げられた時は本当に嬉しかったです。投げている時は痛くても、日常生活に支障はないですね。手術後は薬も飲んでいなかったし、今はもう「完治した」と言っていいと思います。


―ありがとうございました。大変参考になります。しつこいですが…手術に抵抗はなかったですか?

はい。でも、高校の監督は手術を勧めなかったですね。勧めることができなかったようです。昔社会人野球の三菱自動車川崎で指導されていたのですが、選手が手術して復活できなかったことがあったそうです。でも、僕はそのとき手術したら投げられるようになるとずっと思ってました。今では手術してよかったと本当に思います。


―今はもうその病院には行ってないのですか?

高校の時は頻繁に大阪まで行ってました。でも、高校から大学2年までに3ヶ月に1回、半年に1回、1年に1回と段々減っていきました。それ以降は1回も行ってないですね。


―大学は、高岡第一高系列の高岡法科大に入学されます。

監督に「セレクションを受けたりして他のところに行っても、試合に出てエースとして投げている方がみてくれる人はみてくれるぞ」と言われました。


―大学ではどんな感じでしたか?

それが、大学の時でもそれほど納得できる結果が出ませんでした。だから社会人野球に進むのですが…。


―先発ローテーションに入ったりしなかったですか?

2年秋から投げるようになって、3年春からローテーションには入りました。でも、負けてばっかりでした。10勝もしていないけど、10敗はしたと思います。


―北陸大学野球連盟でのチーム成績は?

入学前の秋は優勝だったみたいですが、4年春の2位が最高でした。大抵は福井工業大か金沢学院大が優勝しました。福井大が2部に落ちて、1部に上がってきた金沢星稜大学が、星稜高の系列校なのですが、強くてリーグ戦が混戦になってしまいました。


―4年春の2位のときは?

その時は勝ち点制ではなくて、リーグでは10試合の内の何勝何敗で競うのですが、7勝3敗でした。その内の2敗は自分で…。打たれた試合と援護のなかった試合でしたけど、毎試合なんでこんなしょうもないピッチングしかできないんやろ?、やればできるのに、とずっと思ってました。相手チームの監督にも「未完成」と言われる始末で…。チームに迷惑をかけていたので、打たれた時は何か言われてると思ってました(苦笑)。


―投手はチームに何人くらいいたのですか?

部員が40人で10人くらいは投手でした。背番号は18番でした。


―大学時代、新聞に取り上げられたりしたことはありますか?

富山の北日本新聞に写真付きで取り上げられたことがあります。4年の春に優勝候補だった福井工大に0-2で負けたときのことです。ヒットは5安打に抑えたし、ピッチングとして悪くはなかったですが、何をしゃべったかは覚えていません。でも、監督のコメントは覚えていて、確か「打線に援護がなかった。山上はよく投げた」でしたが、自分では2失点でもそうは思わなかったです。結果的に福井工大が8勝2敗となり優勝。チームを優勝決定戦に持ち込めなかったですから。

―4年秋は?

4年の秋は試合には出ずにベンチにだけ入ってました。社会人野球のセレクションを受けたこともあったので。普通は4年は春で引退して、上に行く人は秋も各チーム1、2人くらいはベンチに残ります。


―セレクションはどこを受けたのですか?

京都のニチダイを受けましたが、結果不合格でした。確か投手では西岡君(甲賀健康医療専門学校)が受かったと後で聞きました。


―それで、就職して富山ベースボールクラブに入団されるのですね。

はい。でも、仕事が3交代制で練習に出られない日があって…。本当はずっと富山でやろうと思ってました。30歳を過ぎて体が動かなくなったら、定年まで働いて…、と思ってましたが、まさか1年でやめることになろうとは思いませんでした。


―クラブチームから会社を紹介されるのですよね?

そうです。ホームグラウンドを持っていて環境も良かったので。…でも、会社に就職してもクラブと会社は別物なので、僕に理解が足りていないところがありました。自分からもっと練習や試合に参加できるように働きかけることができませんでした。野球で会社に来ている、と言えれば、もっと練習したい、と主張すればよかったのですが、そうもいかなくて…。野球にたまに行くことになって面白くなくなっていって…、もしかしたら自分から面白くない方向にもっていったのかもしれません。会社はそのクラブの一番のスポンサーだったのですが…。


―つまり、他のみんなと同じように仕事をしていて、3交代制で練習に行けなかった。会社では練習に行くように指示がなかったり、社員の人たちにも野球のための援助、理解が浸透してなかったということですね。でも、そもそも会社員でも3交代制の勤務ではなかなか難しいですよね?

そうですね…(苦笑)。野球をやりたいから入社したのですが、仕事自体に興味があるわけではないし、「3交代でもいいですか?土日もありますよ」と言われて、それを安易に了承してしまったのが悪かったです。そこでチームに相談もしてみましたが、「そこで頑張れ!」と。


―それでは一番大事な練習ができないから大変です。ちなみにどんな仕事だったのですか?

仕事の内容はオペレーション業務で、情報処理やプログラム開発、運用、管理というような分野でした。わかりやすく言うと、銀行のATMのシステムオペレーターやデータ処理といった感じです。


―…難しそうですね?僕にはよくわかりません(苦笑)。

いい会社だったのですよ。給料もとても良かったですし、残業もありませんでした。ただ休みがバラバラで、土日が必ず休みではなかったのです。だから、野球ができなくなって、それでクラブチームにいずらくなったというか、…大学や会社、クラブチームの迷惑を考えろよと色々と言われたりもしましたけど…。チームもいい仕事場を紹介するけど…といったスタンスで…。結局そんな状況で4月から野球は二の次になったということです。やるべきことが後手後手になってしまったのもあります。


―それで残念ながら会社も辞めることになってしまうんですね?

チームを辞めるのはいいとしても、なんで会社まで辞める必要があるの?と言われましたけれども…。確かに働くという点ではいい会社でしたけど…。野球がやりたいから。それでも1年間は説得されてファイアーバーズの練習に参加しながら会社で働いていました。


―ところで、その時期にクラブ選手権に出場したのですね?西武ドームに行ったのですか?

西多摩クラブに勝って、オール足利クラブに負けたのをベンチで観ていました。そのときは足利市民球場でした。試合にも出ないで、今までで一番やる気を失くしていた頃と思いますね。試合にも出たことがありませんでした。


つづくvol.3へ

『唯我独尊』~京都ファイアーバーズ・山上直輝投手 vol.3

『唯我独尊』 ~京都ファイアーバーズ・山上直輝投手 vol.3

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―それで、富山から京都のファイアーバーズに来ることになったのですか?

正直、拾ってもらったという感覚です。ダメなら高校の監督に相談しようと勝手に思っていました。


―すごいことやと思います!出身地の舞鶴周辺でプレイするのならまだわかりますが…。

後から竹内監督にも「やる気があるから受けに来たのやろ?なかったらできひん。まだできると思ったからセレクションを受けたんやろ?」と言われました。富山は出るしかなかったけれども、舞鶴にはチームもないので。


―どうやって京都ファイアーバーズを知ったのですか?

それが富山ベースボールクラブにいたときに練習試合をしたのです。もちろん投げてないですが。そのときサムライ・ベアーズの選手が残っていて、アメリカ帰りでNOMOベースボールクラブにも勝つなど強いチームの印象でした。そう言えば、リリーフで竹内監督が投げていて「球速いなあ」と思いました。そんなこともあって、インターネットか何かでトライアウトの情報を得て、応募用紙をダウンロードしました。地元の京都で、当時は榊原監督(浜松商―中央大―日本楽器―阪神―日本ハム)だったし、ファイアーバーズに入れば自分もレベルアップできるかなと思いました。


―それで竹内監督と知り合うわけですね。

竹内監督は経験豊富で、同い年に感じないところがあります。監督がまた投げるようになったら、負けるかもしれません(笑)。でも、まだ投げてほしいし、それを観たい。一緒にキャッチボールをしている時が、他の人とする時よりも楽しいです。


―ファイアーバーズに辿りついてよかったですね。

今やっとほぼ自分の野球ができるようになりました。



―大学では18番だった背番号が今は24番ですが、何か意味がありますか?

最初は6番でした(苦笑)。近藤君(明石レッドソルジャーズ)が辞めるちょっと前に交換しました。チームメイトも時々「ピッチャーなのにおかしい」と言ってくれて、変えてあげんとあかんという雰囲気になりました。あきらめかけていましたけど(笑)。


―6番はおかしいです(笑)。投手としては24番でも違うかなあと思います。

一番最初は14番がいいなあと思っていました。今中(元中日)投手が好きだったので。同じ左でスローカーブに惹かれました。


―今はサイドハンドで投げていますが、以前はオーバースローだったのですか?

そうですね。ファイアーバーズに来て2年目から横にしました。それまでは上から普通にスローカーブとまっすぐを投げていました。


―変えるのに勇気が要りませんでしたか?

働きながら富山から京都まで往復している時は、1ヶ月に1、2回しか来られませんでした。とにかく練習に参加できませんでしたから、たまに来て投げても調子が悪く、コントロールも今ひとつで…。このまま上から投げていては試合に出られない。ひじを下げてみようと思ったのがきっかけです。


―会社もなかなか辞められない状態だったんですね?

会社には辞めると言っていたのですが、部署内での他の人の人事異動があったので引っ張られました。「人がどうしても…」と言われて半年経ちました(笑)。それでもう1回頼んでようやく「わかった」と快諾してもらえました。


―それにしても、富山から京都まで半年も通っていたというのは驚きです。時間もお金もかかったでしょう?電車ですか?

車で来てました。最短4時間半で往復6000円くらいかかってました。ガソリンはもちろん別途です。昼からの練習なら朝8時に出る感じです。今ならETCで1000円ですが、途中までお金のかからないルートを使ってから高速に乗ってました。そうすると、5時間ちょっとかかります。10回以上往復しましたが、野球に行くことに関してはつらくありませんでした。


―北信越BCリーグは考えなかったのですか?

会社を辞めた次の年にリーグができたのですが、トライアウトを受けて北信越に行っても到底ムリと思ってました。だから挑戦する意識もなかったですね。元チームメイトが3人入りましたが。


―そういう苦しい状況で野球を辞めようとは一度も思わなかったですか?

野球が好きなのが1番ですね。それとまだまだ不完全燃焼というのもありました。高校や大学を引退した時も、技術がまだ天井ではないと思っていましたし、そう思えるところもありました。もっとできるのにと、うまくなれるはずと今も思い続けています。限界が来て、これ以上うまくならないと思えば辞めていたかもしれないし…。もし、辞めるチャンスがあったとしたら富山の社会人クラブの時だったと思いますが、もっとできるのにここで辞めるという選択肢は選べなかったですね。実際に周りのみんなから見ても、仕事を辞める際に「そうか、それはわかる。でも、会社も辞めるの?」と言われました。でも、自分ではそう思いませんでした。仕事的に問題があったわけでもありません。


―いつから城陽市にお住まいなのですか?

今年の1月からです。去年の半年間は舞鶴の実家から練習に通っていました。
その間、設備会社でバイトしたり、親戚のおじさんのお手伝いをしていました。でも、チームに「近くに引っ越したい」と言ったら、アルバイト先まで紹介してもらいました。


―住んでいるところも紹介されたのですか?

実家に帰ったチームメイトの部屋に入れ替わりで住んでいます。


―アルバイトの話が出てきましたが、大学の時はどうでしたか?

コンビニで週に4日、夜の9時から深夜の1時まで、4時間ずつくらい働きました。それからゴルフ場で球拾いですね。すぐに終わりました(笑)。基本的には接客はあまり好きではないですけど、昼間は練習もあるので、今は夜だけ焼肉屋さんに勤務しています。他にも練習のない週2回は昼に自営業のチームメイトのお手伝いをさせてもらっています。


―仕事もあるので、練習も時間が取れないですね。

そうですね。バイトで疲れますが、野球に支障がないようにしているつもりです。特に暇な時間もないので、毎日走ったりするなど個人ではほとんど練習もできていないですね。


―趣味が車とHPにありましたが、ドライブする時間もないですね?

ドライブしたらガソリンが減るので(苦笑)。今までずっと海が近いところに住んでいたので、時々海が恋しくなります。


―好きな言葉はありますか?

うーん、…「日々是努力」です。高校の監督さんが常に言ってました。怖かったけど、尊敬していました。


―ジンクスや願掛け、習慣のようなものはありますか?

うーん、…ファウルラインの線を右足から越える…ですかね。自分で勝手に決めてやっています(笑)。1つ決め事をしておいたらいいかなあと。毎回同じことをするとリズムができるので。


―好きなプロ野球選手は?阪神ファンですか?

阪神ファンです。好きな選手…うーん、中日の高橋聡文ということにしておきましょう(笑)。同じ左ピッチャーだし、テレビで観た時は自然と応援してしまうし、打たれてほしくないですからね。


つづくvol.4へ
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